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真珠腫性中耳炎の経緯 --- 「ダウン症があるとかないとかどうでもいい、誇りがあればいい。」

記録しておこう。真珠腫性中耳炎というのにかかって、手術を受けた。

もともとは8月後半。耳垂れが出ていたので、2駅隣の耳鼻科に行った。
なぜ2駅先かというと、家の近くの耳鼻科で暴れて拘束できず「うちではもう見れん」と言われたからである。
2駅先の耳鼻科はダウン症児なども見ていて、子供の扱いにも慣れているらしいという触れ込みだったので、そこに通っていた。
急性中耳炎だろうということで、点耳薬と飲み薬を貰って帰ってきた。
しばらくして、治らないのでもう一回行った。
もう少し強い薬を貰って帰ってきた。
治らない。
これはおかしいと妻が言い出し、9月末に鼓膜チューブを入れてもらった先生への通院が入っていたのだが、その前に飛び込みで大学病院に見てもらうことにした。
そこで、もっと強い薬が出された。
その先生曰く、急性中耳炎の治療にはセオリーがあって、徐々に薬を強くしていき、この薬までいくとだいたい直る、とのこと。
で、薬をいれて、10日くらい。
良くなっているけれど、まだ耳垂れが出る。
更に10日くらい。
これは「真珠腫性になってるかもしれん」ということで、一週間後にCTで検査をすることになった。一泊の入院である。

土曜日の昼前に受付をして、診察を受けて、病室に移動した。このあたりで、既に息子は飽きていた。プレイルームというのがあったので、そこで遊ぶことにした。いつになったら検査なのかねえと思いつつ待っていたら、ちょっと早めにできそうだとかで、点滴を入れることになった。
これが大騒ぎであった。
基本的にこういう時、親は処置室の外に出される。
中では、男性2名女性3名ほどのスタッフが大暴れ大泣きする息子をおさえつけて、20分くらいかけて、点滴のルートをとっていた。と思われる。
病室に戻ってきた息子は汗だくになっていた。ちょっと抵抗しすぎ。
で、着替えて(この着替えもお気に召さなかったようで、暴れたが)CT検査室へと向かう。かと思いきや、プレイルームに行こうとして、抱えて外に出て、このまま抱えてエレベータ移動するのかとつらい気持ちになったところで、小児科の前にベッドというか、柵があるストレッチャーが置いてあり、看護師さんが「これに乗っていくよ」と言ったら、息子は俄然やる気になり、それに乗って、みんなに押されて、得意げに進んでいった。疲れた。
これだけで疲れたので、点滴のルート確保はさぞかし大変だっただろう。

検査そのものは10分程度で終わった。点滴というのは、麻酔の点滴用で、要は検査中に動き回らないようにするためのものだった。
でも後から先生が一本だと頑張ったけど二本目でこてんと落ちたとか言っていたので、点滴なのか注射なのかは分からない。
いわゆる全身麻酔とは違い、寝かしただけなので、普通は1時間くらいで起きるし、そのまま寝ちゃうかもしれないと言われた。
で、1時間くらいで、起きた。本当、寝ないな、こいつ。
妻と交代で食事を取り、先生からの説明を待つ。
夕方になって呼ばれたので、耳鼻科外来に行った。その間、息子は看護師さんが見ていてくれた。

結論として、内耳に膿らしきものがたまっていて、一部骨も溶け始めており、真珠腫性中耳炎と思われるので、手術したほうがよいだろうとのことだった。

真珠腫性中耳炎というのは、主要ではなく炎症らしい。鼓膜の一部が奥にへこんで、そこに耳垢がたまって炎症を起こす。それが奥に侵攻していって、耳小骨を溶かす。治療法は手術しかなく、説明では炎症部分をすべて取り除き、溶けかけた耳小骨をひとつ外し軟骨を整形してはめこむ。あわせて、鼓膜の補強も行う。
耳という小さな器官だし、脳にも近い場所だし、という不安があったが、主治医が言うには月に一回くらいはやっている手術だし、基本的に安全なほうに倒すやりかたをするという説明だったので任せることにした。

なるべく早いほうがよいだろうと思ったので、病院で空いている最速の日を予約した。
その日は一泊入院し、妻が付き添った。
翌日午前に僕が病院に迎えに行き、退院した。

ここまで、まだ前半である。これからが、手術本番。
なんでこんなにダラダラとした調子で書いているかというと、記憶があいまいだからで、その当時の瞬間は色々必死なんだけれど、後から思い出そうとすると朦朧とした感じなるからだ。なんだろう。加齢?

さて、手術本番。
前日から入院した。僕は朝からついていき、病室に落ち着いたところで会社に移動した。なんだかんだと、病室に落ち着いたのは昼過ぎだった。
手術前には水分をとる必要があるらしく、その日の夜から手術当日の朝まで、これを飲んでくださいとイオン水を渡された。
当日の朝。朝食はない。イオン水だけ。だけどあんまり飲まないらしい。病室から電話がかかってきた。お父さんもうちょっとでそっちに行くから、がんばって水飲もうねと話したら、少し納得したようだった。
10時過ぎに病室に到着。この日は一日有休をとってあった。手術は12時45分からの予定。
すごろくしたりして遊ぶ。僕のカバンから乾電池を発見した息子は、動かないトーマスのおもちゃにいれようとする。しょうがないので手伝って、電池ははいって、がちゃがちゃやっていたらモーターも動いたのだけれど、車輪がまわない。これはしょうがないねと言ってあきらめる。
プレイルームというのがあるのだけれど、あまり出歩かないように看護師さんから注意される。というのも、入院の数日前に息子は胃腸炎にかかっていて、かつ当日の体温が37度あり、病院側としては念の為隔離ということで個室になったからである。このあたりの諸々は、この文章を読んでいる人は病院のシステムなど理解されていると思うので、省略したい。
予定より30分くらい遅れて呼ばれて手術室まで。珍しいことに、両親もスモック的なのを来て(NICUでさんざん着たやつ)手術室まで入れた。
息子は興味津々で手術台にのぼったが、どうやら点滴のルートをとられると思ったらしく、両手を背中に隠してしまう。しかし、まずは麻酔からということでマスクをつけてしばらく呼吸したら、ものの数秒で眠ってしまった。ここで両親は退場。
おそらく手術が何件も行われているからだと思うが、本人と手術内容の確認が何回も行われた。手術室に入ってからも、名前を確認し、バーコードをスキャン。WindowsXPのクラシックモードのマシンであった。

手術は3時間かかると言われていたので、食事をしてから病室に戻り、待った。こうなると待つことしかできないので、本当に待つしかない。
ところで本人確認のところで、お名前言える?などと聞かれていたのだが、言えるはずもなく隣で親が答えていたんだけれど、誕生日は?と聞かれて、答えられないんだけど、代わりに手を広げて「7−!」とやっていた。自分が答えられる範囲で何かしら答えようとする姿勢は、実に好ましい。

ほぼ予定通りの時間になり、呼ばれて手術室に向かった。付き添い一人だけ入室ということで、妻だけが中に入っていった。
後から聞いたら、中で先生から色々説明をされたとのことだったので、そこは臨機応変に僕も入れてほしかったなと思う。
ベッドに載せられて息子が出てきた。寝ていた。起こさないといけないんだけど、起きないらしい。そのまま病室に戻る。
しばらくして先生がやってきて、改めて説明してくれた。そして息子は起きない。みんなで起こそうとするけれど、起きない。
先生が帰ったあと、ようやく起きた。
横にいた僕にくっついてきた。
涙をひとすじ流した。この涙はなんだろう。
そして、また寝た。

手術の内容は予定通りのもので、再発や今後の処置を考えて耳の穴を広げたりもしたらしい。炎症を完全に鎮めたいので、抗生物質の点滴を長めにすることになり、4泊5日が5泊6日になった。手術の翌日には、頭を巻いていた包帯がとれて、傷跡が見えるようになったが、綺麗なものだな、と思った。自分が腸閉塞で手術した時の印象が強いので、縫った後相当痛いイメージを持ってしまうのだが、耳の後ろはほとんど動かないので痛くないらしい。溶ける糸と接着剤みたいなので止めてあるから大丈夫だとのこと。

個室なので付き添いで泊まるのは父親でも母親でもどちらでもよいとのことだったが、妻が自分が泊まるから大丈夫だと言った。が、結局、最終日に息子がお父さんお父さんになってしまって、最後一泊だけ僕が交代した。5泊6日だが、後半3日が連休に重なったので、僕が動けたのはラッキーだった。4日目の昼間に妻と交替し、夜は帰宅し、5日目の午後に交替してその夜は僕が泊まって、6日目に退院。

入院の付き添いとなると、一番厳しいのは簡易ベッドである。以前マイコプラズマ肺炎で別の大学病院に入院した時も個室だったので、僕が代わって泊まったことがあるが、ひどい寝心地だった。
今回は、というと、以前ほどひどくなかった印象がある。なぜかと考えてみると、ベッドが子供用からふつうのベッドになって高さが低くなり、簡易ベッドと並べると同じくらいになっていて、簡易ベッドを並べて置いたので実質少し広めに片方を使えたからじゃないかという気がしている。仰向けに寝て手がはみ出ても、落っこちないわけですな。
あと、妻が事前に研究して、ベッドの中央がへこむので、そこにタオルを厚めに置くとよいとか、色々していたからというのもあるだろう。
といいつつ、21時に寝て、2時半に起きた。起きたら眠れなくなってしまった。しょうがないので、ぼんやりと色々と考えて、ああ、こうやってぼんやりと考える時間すらあんまり普段は取れないんだよなあなどと考えたりした。
息子はなんだか眠りが浅いようで、何度も寝返りを打ったり、たまにムクリと起き上がったりしていて、その度に寝かしつけて背中をトントンやったりした。
5時頃まで起きていて、寝た。で、7時に起きた。

10時頃に妻が来てくれて、最後の診察を受けて、退院となった。
帰宅したら、あとはもう普通の生活である。
ただ、クリスマスイブではあったが、みんな疲れ果てていたので、クリスマスディナーは翌日に持ち越しになった。

でもまあ、本人も周囲も、みんな頑張った。

だらだらと続けてきたが、これが今回の真珠腫性中耳炎の経緯である。ダウン症のひとはなりやすいらしい。じゃあ予防する方法はないのかと主治医に聞いたら、ないとのこと。この子は滲出性中耳炎で鼓膜チューブも入れているので、耳の病気には慎重になったほうがいいタイプなのだろう。
何かの参考になれば。

(2018年12月26日記)


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