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3人だけの小さな幸せな世界 --- 「ダウン症があるとかないとかどうでもいい、誇りがあればいい。」

最近の息子は、しまじろうのことを「ろー」と呼び、はなちゃんのことを「ちゃーん」と呼ぶ。
だいたいこの言葉は、寝る前にゴロゴロする時や、寝る準備をする時に出る。
遊んだり、歯磨きをしたりするのに、しまじろうと一緒にしようとして、どこに行ったのだろう的な時だ。トイレに行く時にもしまじろうとはなちゃんと一緒に行きたがるので、三人(うちには、しまじろうがふたりいる)を呼ぶ。
単に「ろー」「ちゃーん」だと分かりにくいのだが(しかも、本人、自信がないのか、この単語は小さな声で発語する)、このくらいの時間でこういうことをしている時に発語されたら、しまじろうとはなちゃんのことなのだな、と分かる。

ハイコンテキストな……、いや、ハイコンテキストなのか?
家庭というフレームに限定された中で通じるコンテキストであり、ハイコンテキストと言うならフレームの外側にコンテキストが存在していないといけないのでは?だから、ハイコンテキストというのはおかしいのでは?言ってみたかっただけちゃうんか?
などということを、ぶつぶつを考える。

家庭というフレームの中には、何時に学校に行き、何時頃寝るというシナリオがある程度できあがっていて、その中でのコンテキストでは彼の言葉は成立する。

トイレで「ちゃーん」とか言っていたので、「いや、朝は忙しいから、はなちゃんはあとでトイレに行くよ」と言ったら彼は納得したのだが、この会話をした僕は特別な感覚に襲われた。この会話は、家の中でしか通用しない。なんなら、今この場にいる、僕と息子の間にだけ成立する会話だ。
なんと特別な空間なのだろう。
なんと特別な関係なのだろう。
なんと愛おしい結びつきなのだろう。

同時に恐ろしくなった。この関係性に喜びを感じてしまうことへの恐怖だ。

以前にも書いたかもしれないが、我々のコミュニケーションは家族3人の間だけなら問題なく成立している。3人だけの小さな世界なら、幸せに暮らしていけるのだ。

それは特別で安心できる世界なのかもしれないが、そこに安住しようとしてはいけない。なぜなら、息子が独り立ちできなくなるからだ。
だから彼は家族以外の人とも関わりを持ち、その道具としての言葉を学び、外に出ていかなければならない。

しかしそれをさせなければならない、背中を押さなければならない親の立場である僕は、狭い世界に安寧を感じてしまう。なんとも情けない親だ。

安寧に甘んじることに反発して生きてきた。その意味ではいまの日々何かが起こる生活は願ったりかなったりなのかもしれないが、そういった中に少しだけ安らぎの要素を見つけたりすると、それもいいなと布団の中でゴロゴロして、次の瞬間にハッと恐ろしくなるのを繰り返すのである。

(2018年11月21日記)


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