見出し画像

くるみ割り症候群とお湯のおでん

僕は身体が弱いタイプではない。少し肥満気味で猫背だけど180センチを超える大きな身体を持っていて、あまり風邪もひかない。
でも、小学5年生の頃は殆ど学校に行っておらず自宅学習をしていた。その後、小学6年生くらいから学校に復帰したが、高校生になるまで体育の時間は教室から授業を受けている皆んなを見学していた。

小学生の頃、僕は学校の窓ガラスをよく割ってしまっていた。わざとではないけど、年に1回以上は割っていたと思う。落ち着きがなかったのだろう。小学5年生の学校に行かなくなる日の前日。その日も学校で窓ガラスを割ってしまい、担任の先生に怒られた。
帰宅して母に窓ガラスを割ってしまったことを報告すべきかどうか迷いながら過ごしていた。夕方が過ぎて夜が始まりかけた頃、急にオシッコに行きたくなったのでトイレに駆け込んだ。明かりをつける余裕もないほど急いでパンツをおろし、日の入り直後の薄暗いトイレでじょぼじょぼと放尿をした。
ところがなんだか様子がおかしい。便器に向かって放物線を描いているオシッコが、薄暗い部屋の中でくっきりと黒く見えた。尿道からコーラが出ているような。でも、スカッと爽やかではなく。あまりにも状況を飲み込めなかったので「明かりをつけなかったから、オシッコも黒く見えた」ということにしてやりすごした。
しかし、すぐに次の尿意。今度は落ち着いて明かりをつけて用を足した。

黒い。オシッコが黒い。

かなり驚いた。真っ黒なオシッコだったけど「血が混じってる」と直感でわかった。血尿は赤くなく黒いのだ。その黒いオシッコが散らばった便器を母にみせた。どうして血尿が出ているのか。割った窓ガラスの小さな破片を飲んでしまったのかもしれない。いやいや、きっと違う。一日を振り返って理由を探してみたけど見つからなかった。翌日、母と病院へ向かった。

原因は左腎静脈捕捉症候群。別名ナッツクラッカー症候群と呼ばれる内臓の構造的な不具合。大動脈と上腸間膜動脈が左腎静脈を挟んでしまっており、腎臓から下大静脈への血流が悪くなって左腎静脈圧が高くなり、レントゲンでみると二つある腎臓の片方が鬱血して肥大化しているような状態になっていた。
大動脈と上腸間膜動脈が左腎静脈を挟んでいるのが、くるみ割り器が血管を挟んでいるようにみえるらしく、それがナッツクラッカー症候群の名前の由来。
珍しい病態らしく、最初のうちはナッツクラッカー症候群と診断されずに「原因不明の腎臓病」という診断になった。医者からの勧めで激しい運動と塩分を控える生活を送ることになった。まるで小説やドラマに登場する「類稀なる才能を持つけど病弱な少年」のように、普通から外れた特別な存在の特別な生活を得た感覚があった。残念ながら類稀なる才能はなくて、ごく一般的な少年だったのだが。

激しい運動と塩分を控える生活。もともと運動は苦手で嫌いだったので激しい運動ができないことは好都合だった。思い存分に根暗に過ごせた。好きだった同級生の女の子に会えないのは少し寂しかったが、学校に行けないのも嬉しいことだった。そのうち好きな女の子のことはどうでもよくなった。問題は塩分控えめの食事だ。あれは思い出しただけでもきつい。何を食べてもほぼ無味なのでゲンナリする。

冬のある日、食卓におでんが並んだ。僕以外の家族用に美味しそうな玉子・チクワ・大根。だけど、僕のはお湯だけで煮込んだおでん。ストーブの上に小さな鍋を置き、水と具材を入れてクツクツと煮込んだおでん。その鍋からあがる湯気だけが美味しそうな感じを演出していた。味がないくせに温かみを演出するズルいやつ。想像できると思うが、お湯で煮込んだ玉子は茹で玉子でしかなかった。お湯で煮込んだチクワは温かいチクワでしかなかった。大根も然りだ。おでんの味がしないおでん。
本当に塩分控えめの生活はつらかった。老後にまた塩分控えめの生活が始まるのだろうと思うと嫌気がさす。

その後、血尿は徐々に治りはじめて学校に行けるようになった。そして塩分のあるものも食べられるようにもなった。依然として運動は控えめにしなければならなかったが僕にとって好都合。体育の時間は独りっきりになった教室を支配した気分で好きに過ごした。
ナッツクラッカー症候群は自然治癒で回復することが多いらしく、僕も手術や投薬などをせずに叙々に回復していった。回復していくと同時に僕は特別な存在ではなくなっていった。高校生になってからは体育の授業にも出席するようになった。

いまやすっかり普通の運動音痴だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?