見出し画像

コミュニケーションというと、なんだか難しそうな感じがするけれど。|『ドライブ・マイ・カー』(2021)

つい最近、あることがきっかけで『ビジュアル・シンカーの脳 「絵」で考える人々の世界』という本を読んだ。写真のように精緻な記憶、細部まで正確に再現するシミュレーション、視覚イメージを駆使した推測。そのような視覚思考者の脳がどのように働くのか、言語思考者とどのように違うのかについて、結構ちゃんと書かれており、なかなかに興味深い一冊でした。というのも、実は僕はこの「視覚思考者」の側に属すると思っていて、物事を考えるときには「絵」や「図形」、「パターン」を使います。例えば、小説を読むときはある種の「映画」のように、文章を頭の中で再生したり、小難しい専門書のときも内容をパズルにように図式化したり。そのように、文字を別のなにか、ビジュアルで分かるものに整理し直さなければ、読み進めることができない。文字 → 図やパターン → 文字のように。

だから……というわけじゃないのだけれど、僕は昔から文章の細かい表現を見落としてしまうことが多く、正確に文章を読むことが苦手だったりする。例えば学生時代、僕は国語(特に現代文)のテストが1番苦手だった。一語一語、一文一文、正確に読もうとすると頭の中のイメージを細部まで作り込まないといけないから、それがあまりにも面倒で。もちろん、理由はそれだけではないと思うのだけれども……。この本は、普段僕が考えているようなことが整理されて説明されていたので、興味のある方は読んでみると面白いと思います。自分の思考方法を判定するテストもついているので、それをやってみるだけでも。


でも、ちょっと思ったのは視覚思考者と言語思考者との間のコミュニケーション方法について。自分のやりやすい方法が必ずしも相手もそうだとは限らない。試しに会社の人に聞いてみたら、何人か、それもかなりの数の人が「言語思考者」だった。そういうとき、僕が言語に合わせたほうがいいのか、それとも彼らが視覚に合わせたほうがいいのか、どんなふうにコミュニケートするのが良いのだろう?


『ドライブ・マイ・カー』(2021)

『ドライブ・マイ・カー』という映画がある。2021年公開の、監督・濱口竜介の3作目の作品で、原作は村上春樹の『女のいない男たち』。妻をなくした舞台演出家・家福が、広島国際演劇祭で上演する「ワーニャ伯父さん」をきっかけに、自身の傷と向き合う…という映画です。結構有名になった映画だからご存知の方も多いと思うんだけど、『ビジュアル・シンカーの脳』を読みながら、この映画のことを僕はずっと考えていた。

この映画はさまざまなレトリックを用いながら、人と人とがコミュニケートするさまを表現している。例えば、家福という人間を軸にしてみてもわかりやすい。「ワーニャ伯父さん」のスクリプトと現実世界の関連性や、ある意味で「対象的な存在」とも言える高槻という男の存在。渡利みさきという若い運転手(それも自分のなくなった娘と同い年)との車内での位置関係。タイトルの通り、「自分の人生を歩みだす(Drive My Car)」までのそれぞれの変化を丁寧に表現している。


自分自身を深く見つめることで分かるもの

ここでそれらを細に書くことはエッセイの趣旨とは外れるし、そもそもそんなに深くこの映画を見れていない僕だから言及することはできないけれど、人と人とが交流するということは、単に会話や時間の共有ということにあるのではなく、相手の言動や行動の奥底にあるものを見ようとし、それを自分自身で表現する「姿勢」のことを言うのではないかと思う。作中で家福は、妻である音の不貞行為を知りながら、それも長期間に、複数の人間と行われていたことを知りながら、見ないふりを続けていた。それが明るみになれば、もう元の2人に戻れないと思っていたから。

音が死んだ日。出かけに彼女が帰ってきたら話がしたいといった。柔らかな口調だったけど、決意を感じた。何の用事もなかったけど、ずっと車を走らせ続けた。帰れなかった。帰ったらきっと、もう同じ僕たちではいられないと思った。

映画『ドライブ・マイ・カー』

同じような表現が、原作の方にもある。「君はいったい彼らに何を求めていたんだ? 僕にいったい何が足りなかったんだ?」と。自分は良好な関係を築いていたと思い込んでいたにも関わらず、相手はそう思っていないのではないか、精神的にも肉体的にもぴっちりと結び合っていたはずのものが、ふと目を話した隙に綻んでいた恐怖。そうした決して答えの出ることのない問いが、妻の死んだ後もずっと、家福の周りを取り囲んでいる。


ある意味でこの家福の問いは、自分にも当てはまる部分が多いにある。自分に何が足りないのかという不安がさらなる不安を呼び、妄想が肥大化していくあの感覚。なんでもないことに過剰反応し気持ちをコントロールできなくなるあの感覚。にもかかわらず、いざ相手を目にすると、そんなことはお首にも出さずに平静を装ってしまう。身体と心とが、徐々に分離していくのを、自分の演技でかろうじて繋ぎ止めるあの感じ。誰しも、同じような経験をしたことがあるんじゃないかと思います。

しかし、このような問いは、絶対に答えが返ってくることはない。例えば、音が夫以外の誰かと寝ていたことに対し、意味を探ることなど可能だろうか。どんな理由があろうとも、たとえそれらしい理由が示されていたとしても。あくまでもそれは、解釈の域を出ないものになるだろう。なぜなら、人の行為というものは、その一瞬、一瞬で揺れ動く心の情動に左右されるものだから。何を考え、何を求めていたのかという<真実>と、それによって引き起こされた<事実>との間には、深い深い谷のようなものが横たわっている。ひどい言い方だが、思いつきやその場の雰囲気に任せて…という可能性もありうるだろう。何の理由もないかもしれないし、「これだ」という理由だって後から付け足されたものかもしれない。原作で家福が自分で話すように、人と人とが関わり合うというのは、特に男と女というのは、「全体的な問題」で、「曖昧」であるし、「身勝手」でもあるし、「切ない」ものであるのだから。その意味で、コミュニケーションとはどこまで行っても、不完全だと言えるだろう。

でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。僕はそう思います。

映画『ドライブ・マイ・カー』

でも、だからこそ自分の心だったら、どうだろうか。見えない、相手の気持ちを探ってばかりいるのではなく「自分自身」は、相手に何を求めているのか、相手のことをどう思っているのか。少なくとも、不確かな相手の気持ちよりもずっと、分かることができるんじゃないかと思います。音の行為に対し、家福は何を感じ、何を思ったのか。そして、その気持をどうするべきだったのか。愛する人を失った人に対して非常に酷なことを迫っているようだけれど、<真実>と向き合うということは、自分自身の内側を見ようとすることと言えるかもしれない。


高槻は言う。努力さえすればという文言を…。

毎度のごとく話が脱線しているのだけれど、人と人とがコミュニケートするときに、何を用いるか、どんな手段を使うかは重要ではない。それよりも自分自身はどんな交わりを持ちたいのかを考えることにあるのだと思うし、そのうえで、相手をおもんばかること。そのような姿勢が、巡り巡って人と人を結びつけるんじゃないか。冒頭の問いに自分で答えるとしたら、こういう感じになるんじゃないのかなと思います。

まあ、なんだろう、本当はこういう説教めいたことを言わずに、お気楽なノリのエッセイを書きたい気持ちがあるんだけれども。どうしてもこう、固い感じが拭えない。うーん。まだ、自分自身のことを深く見つめられていないのかもしれない。自分で言っといて何だけど。

この記事が参加している募集

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?