コーチングから学んだ、感じる世界に飛び込んでみること
「直感」とは何だろう。
「感覚」とは何だろう。
それは頭では想像もできない、
自分という生命が運ばれたがっている流れに導いてくれる羅針盤なのかもしれない。
今回はコーチ仲間から「コーチングから受け取ったギフト」という問いでリレーノートのバトンが渡ってきたのもあり、
概念的にしっかり考えて書くというよりは、感覚的にストーリーベースで言葉を綴ろうと思う。
「信じて共にいてもらう」コーチングとの出会い
僕は大学生の時にコーチングを学び始め、大学院の途中からプロコーチとしてお仕事をさせていただいているが、
コーチングから受け取ったことの一つに「直感や感覚を信じてみる」ということがある。
大学は文理が分かれていない領域横断的な学部に進学し、まずは自分が何に興味があるのか、どんなことに心が動くのか、それを知りたくて通っていた。
いろんな授業やいろんな課外活動を経験し、その中で「人との関わり合い」という場に広がる奥深さや魅力、ジレンマなどに興味が向くことを知った。
大学院の研究にも続く「対話」というものに出会うのもその頃なのだが、同時にコーチングという関わり方にも出会ったのもその頃だった。
コーチングに潜在的に魅力を感じ始めたのは、当時インターンしていた会社の影響である。
その会社は個人向けのキャリア支援や法人向けの人材開発・組織開発を行っていたのだが、会社の代表の方がコーチングをされている方だった。
時折、1on1の面談の機会があったのだが、その時にその方の存在から伝わってくる「相手の中に答えがあるということを信じる姿勢」。それが今でも記憶に残っている。
その人は特に何かを言うこともなく、ただそこで「うんうん」と座ってくれているだけなのに、不思議と自分の中からは言葉がどんどん出てきて、それに従って自分の中にある感覚や考えがクリアになって、大切にしたいことが見えてくる。
そんな体験がコーチングという関わり、もう少しニュートラルにいうと、関わり方一つで相手から発露する可能性が変わるということに魅了されることにつながっていった。
そこから僕自身はCTIというところでコーチングを学び、自分の生業のひとつになっていくわけだが、その過程で体験したこともまさに「感じていることの中に全てがある」ということだった。
どんな「感覚」や「感情」にも、
感じていったその先には「道」がある
感覚は素直である。
そしてリアリティがある。
頭で考えていると、概念上での選択肢の検討の域を出ることができないが、
感じる世界にいると、さまざまな色、質量、手触りの感覚に出会う。
ときに苦しい感覚を体の一部に感じることもあれば、どんと安定した感覚を肚の奥底に感じることもある。
何か胸の奥につかえる感覚を感じることもあれば、喉元に何か詰まる感覚を感じることもある。
そのどれもが実際に生じている感覚で、リアリティがあるのである。
そのリアリティのある感覚をどうして無視できようか。そこに感じていることがあるというのは、それは世界とのインタラクションの中で何かを受け取っているということでもある。
人は世界から独立して存在している観察者ではなく、さまざまな相互作用の中で存在しているinterbeingでもあり、間として成り立っている自分でもある。
そう考えると、自分の内側で生じている感覚というのは何かを大切なことを伝えてくれようとするサインであり、そこを紐解いていってみると、自分の体験していることや物事の解釈の仕方、あるいは奥底で抱える願いや痛み、または自分を取り巻く場のどこかに存在しているエネルギーと同期する何かを見つけることができるだろう。
すべては身体の感覚に現れており、そこを紐解いていくこと。
自分の中にある答えに出会っていくためには「身体の感覚を辿る」こと。
それがすごく大切であることをコーチングを学び、実践してくる中で知った気がする。
(ちなみに特に身体の感覚から入らずとも、自分なりの答えに出会うことはある。その時は、考えるプロセスの中で「腹落ちする(しっくりくる)」感覚に迫っているかどうかが大切だと思う)
身体は向かいたい方向を知っている。
だから「逃れられない感覚」にはサレンダーする
もうひとつ「感覚」にまつわるおもしろい体験を言葉にして締めていきたいと思う。
それは自分の選択を振り返ってみたときに何度か体験のある、「どうしても逃れられない感覚」というものだ。
いくら他の選択肢を検討しようとしても「あぁ、自分はこっちにいくしかないんだろうな」と思う感覚だ。
この感覚は非常に面白い。
例えば、僕自身は今のところ大学院を卒業後、4年ほど個人事業主として活動している。これは理性で考えると、かなりリスキーな選択だったと思う。社会人経験がなく、すでにあるビジネス上のつながりもない。営業が好きなわけでもないし、マーケティングが好きなわけでもない。そんな自分が自分の持っているものを活かして生きていけるのか。
就活をしないことを決めた大学院2年の上半期は何度も「食えなくなって死ぬんじゃないか」と思った。(本当はそんなことないのだけども。)
けれどもなんか「コーチングをしない選択肢はなく、この道からは逃れられないのだろうな」と思って腹を決めた。
自分の身体はどこかで進むべき道を知っているのだと思う。
理性は「こうしたほうがいい」「こっちの方が安全だ」と合理的な選択肢をいっぱい見つけてきてくれるのだけど、自分の道を決めることは感覚にしかできない。
だからもう潔く諦める。自分の身体が知っている方向に対して、サレンダーする。
それが肚を括るということなのかもしれない。
どんなカオスの中でも、身体の感覚に根差す
どんなカオスでも、この身体をその場に投げ込み、そこで感じることにじっくりと浸りきる。
そして、何か現れようとする兆しに耳を澄ませる。
そのことさえ心がけていれば、必ず何か見えてくるものがある。
そしてそれに沿って動いてみたら、状況が変わる。
絶えず、状況と身体の対話の中から方向は現れてくるのかもしれない。
感覚を信じていれば、生きていくことができる。
たとえ苦しくても、どんなに自分に辟易としたり、幻滅したりしても。
身体に表れている感覚には絶対に大切なメッセージがあると信じている。
Feel at ease in uncertainty.
不確実な状況の中で、安心していられる感覚。
そんな感覚がコーチングと出会うことで少しずつ養われているのかもしれない。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?