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手と手①

ハンドクリームを塗る。このグループに入って1番最初に仲良くなった先輩に教えてもらったクリーム。

「握手会の日の朝はいつもね、ハンドクリームを塗りながらその日来てくれるファンの人を思い浮かべるんだ。」

先輩はそう言いながらアイドルのお手本のような笑顔を私に向けてくれた。
今日は私にとって初めての握手会の日だった。自分の手から先輩と同じ匂いがして私もアイドルの1人なんだ、と思い少しリラックスすることができた。



数年前までは自分がアイドルになっているなんて思ってもなかった。国民的アイドルグループの曲だって有名なものをテレビ番組で見たことがあるくらいだったからスマホにはアイドルの曲なんて入ってなかった。

そんな私をアイドルへと導いてくれたのは家族でも友人でもなくYouTubeだった。ある日いつものようにYouTubeを見て時間を潰そうと思っていたらたまたまアイドルの曲がおすすめに出てきた。今になってもなんであの時YouTubeが私にあの曲をおすすめしてくれたのかはわからない。だけど、聞いてみたらなぜか涙が出ていた。こんなことって本当にあるんだ、それが1番の感想だった。それから私はそのアイドルをチャンネル登録してYouTubeにアップされているMVをすべて見た。私はすぐにファンになってしまった。
そのアイドルは友だちの中でも特に人気があるグループではなかったから友だちと話すことはあまりなかったけど、それでも私は曲を聞き続けていた。

1年が経とうとしていた。いつものようにイヤホンをつけて帰りながらネットを見ていた。
新規メンバー募集。そう書いてあった。
私が好きになったアイドルが新規メンバーを募集するのだ。耳からは私の好きなメンバーがソロパートを歌っているのが聞こえている。私はメンバー募集のサイトを開いていた。

もし私がアイドルになれたら、今後おそらくアイドルになったきっかけは何かと聞かれることがあるだろう。私は誰かに憧れてなった訳でもないし、そんな理由で、と周りが驚くほどの理由でもない。私は、YouTubeが私をアイドルになるきっかけをくれました、と答えるしかない。ファンの人からすれば特におもしろみはないかもしれないけど、いつか私もYouTubeで自分のことやアイドルのことを発信できればと思う。私をアイドルにしてくれたお礼のためにも。今の私のような子のためにも。



「リラックス、リラックス〜」
先輩が声をかけてくれる。スマホを開いてイヤホンをつけなくても先輩の声が自分の耳から聞こえていることに今でもまだ困惑する。
先輩はデビューから着実に人気をつけていて、今ではグループの主要メンバーの1人だった。今日もたぶんものすごい数のファンの人たちが先輩と握手をするのだろう。私のところはどうなんだろうか。人が来てくれるのだろうか。分からない。なにを話せばいいんだろう。分からない。なにも分からないけど時間はやってくる。



ファンの方や先輩のおかげもあってか握手会は無事に終わりに近づいていた。次が最終部、これが終われば私の初握手会は終わりだ。やっぱり私の握手に並んでくれる人は先輩に比べたら全然少なかったけれど、それでも私と握手をするために来てくれた人がいることを知れて本当に嬉しかったし、精一杯心を込めて握手をさせてもらった。中には何度も並んでくれる人もいて、そんな人たちの名前と顔は覚えつつあった。みんな今日のためにいろいろ考えてきてくれたのかいろんな話題について話してくれるし、私にいろんな質問もしてくれた。みんな優しそうな笑顔だったし、もちろん私も笑顔になっていた。なんていいお仕事なんだろう、私はアイドルになることができて本当によかった。

また1人私のレーンへ来てくれる人がいた。私のレーンへ来てくれるのは初めてのファンの人だ。たぶん大学生くらいだろう。きっと私の2、3歳年上くらいのお兄さん。だけどどこかで見たことがあるような気がする。ファンの人はおじさんが多数派だったので若い人のことは比較的覚えるのが簡単だった。だから、もしかしたら今日どこかで見たのかもしれない。

彼は、合格おめでとう。応援しているから頑張って。と言ってくれただけだった。彼の背中を見送る時、珍しい同世代のファンに私は嬉しさと少しの悲しさをもっていた。

時間が経ち握手会の全スケジュールが終わった。何事もなく私の初握手会は終わった。私が控え室に戻る時、先輩のレーンを少し見てみたらまだまだ人が並んでいた。昼に見た時もすごい人だったけど最後までやっぱりすごい数の人だった。先輩と握手している人のすごく嬉しくて楽しそうな顔が見えた。

控え室に戻って来ると、今日の光景が思い出された。自分の手の匂い、何度も来てくれたファンの人たちの顔、私が帰るときにファンの人たちがしてくれたお見送り。全部いい思い出だった。
私は最終部に来てくれたあの若いファンの人の顔も思い出していた。1回しか来てくれていないのに覚えてるのはどうしてだろうか。彼が若かったからだろうか。いや、それだけではなかった。彼は私と握手して話しているとき、なにか辛そうな顔をしていた。それどころか、剥がしのスタッフの人に時間です、と言われ安堵しているかのようにさえ見えた。そんな人は彼だけだったから覚えているのだ。
彼はもう私のところへ握手をしに来てはくれないのだろうか。先輩が戻ってきたら相談してみようか。だけど、相談するようなことなのか分からない。

私はイヤホンをつけていつものプレイリストを流し始めた。

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