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万葉集から 中大兄は誰か

 私は万葉集の歌を原文から鑑賞することを中心としてブログを持っています。そのブログを運用する中で、中大兄と古代史についての情報提供と歴史解釈へのご指摘がありました。そのご指摘から自己流で歴史を勉強したものをベースにして、ある種の与太話を展開したいと思います。言い訳ですが、ずいぶんと昔のYahoo ブログ時代の情報提供と歴史解釈へのご指摘だったためにYahoo ブログの廃止の時に具体的な指摘の記録を失っています。ここでの与太話は、その時に作成したものを、再度、点検・修正してnoteでのものとしています。
 追加しての言い訳ですが、与太話での展開では、極力、入手した資料は一次資料となるように原文を紹介してそれを下として展開します。理由は、古典を扱う場合、慣習的に、先人の誤訳、結論に合わせたような意図的な原文の「校訂」を行い、そこからの訳文だけを紹介する、このようなことに因り、そこに問題性が存在することが判っていても指摘をせずにそのままに受入、それを基盤とすることがあります。ここでのものは、社会人がする遊びの与太話ですから、原則として出所が確かな一次資料を紹介し、それの解釈を示すことで、与太の背景とご批判の材料としています。
 紹介しましたように運営していますブログでの万葉集の中大兄の歌の解釈について、指摘を受け、そこから中大兄と古代史について日本書紀を中心に眺め直しています。この日本書紀という正史を一定の目的の為に眺め直すまで、文中に現れる「云云(しかしかいへり)」と云う言葉が古代日本史を左右しているとは知りませんでした。ここに、歴史に疎いとぼけた人間の地が出てしまいます。そこで、「云云(しかしかいへり)」と云う言葉を、確実とされる日本書紀の継体天皇紀から持統天皇紀までを数えてみますと、全部で27件の記事があるようです。その内訳は次の通りです。

欽明天皇紀 1回
用明天皇紀 1回
皇極天皇紀 5回
孝徳天皇紀 4回
斉明天皇紀 4回
天智天皇紀 7回
天武天皇紀 5回
(与太話ですので、詳細な内訳の列記は省略させていただきます。)

 さて、「云云(しかしかいへり)」と云う言葉を眺める前に、日本書紀の「云」の用字に注目して見ますと、次のような用法があります。
1.  「一云」、「或云」、「一本云」、「或本云」、「異云」、「魏書云」のような引用を示すもの
2.  「此云○○○」のように後年に「あること」を解説したときのもの
3.  「言う」や「曰く」と同じ用字・用法のもの
なお、1と2はおおむね小文字表記となる注記での使用が中心です。

 次に日本書紀の中での「云云」の用字は、次のような場面で使うようです。
1. 「有間皇子、性黠陽狂、云云。」のような断定できない伝聞・推測を引用するか、編集者の創作や感想により読者を意図する方向へ誘導するような場合。
2. 「吉備大宰石川王、病之薨於吉備。天皇聞之大哀。則降大恩、云云。」や「戊寅、天皇幸犬養連大伴家、以臨病。即降大恩。云云。」のような儀礼的に予定される行為・事柄を「以下省略」のような意味合いで記載する場合。3. 「百濟余昌、謂諸臣等曰、少子今願、奉為考王、出家修道。諸臣百姓報言、今君王欲得出家修道者、且奉教也。嗟夫前慮不定、後有大患、誰之過歟。夫百濟國者、高麗・新羅之所爭欲滅。自始開國、迄于是歲。今此國宗、將授何國。要須道理分明應教。縱使能用耆老之言、豈至於此。請悛前過、無勞出俗。如欲果願、須度國民。余昌對曰、諾、即就圖於臣下。臣下遂用相議、為度百人、多造幡蓋、種種功德、云云。」のように、何等かの参考文献や伝聞の引用をするような場合。

 儀礼での予定される行為・事柄を「以下省略」のような表現としての「云云」の用字以外の場合は、伝聞・推測や不確かな書物(公的記録ではないもの、正史の異伝、伝記物語など)等を引用したときに、「云云」の文字で、それが伝聞であることを示すために使ったのでしょう。
 ところが、従来「云云」の用字の中で、日本書紀に示す「中大兄」とは「中大兄皇子」の省略である、そして、「中大兄」とは「中大兄皇子」であるから、必然、「天智天皇」を示すと解釈します。これにより、確定記事に続く「以下省略」の意味であるとしています。現在の日本史の組み立ての中では、正史に載る「云云」の用字に記事内容が未確定となる伝聞の引用や推定の意味合いがあってはいけないとなります。つまりは、最初に紹介した「云云」の用字の説明は誤認もしくは嘘となり、全てが「以下省略」のような表現と理解しなくてはいけません。
 他方、私が管理する万葉集を中心とするブログの中では個人の考えとして、「云云」の用字・用法の意味合いに日本書紀を編纂した時に、編集責任者となるはずの朝廷が正式に確定できていない伝聞や推測も歴史記事として扱うような事例も存在すると考えています。先に示した第3の例文は朝鮮半島の百済国の宮中での出来事ですから、大和朝廷が確認・確定した記事とは考えていません。引用となる二次・三次資料の意味合いのほうが大きいと思っていますし、これは仏教布教に対する伝聞と思っています。ここが歴史の見方の分かれ道になります。
 この「云」や「云云」の用字・用法に対する私が持つ憶測・偏見から、次の文を見てみたいと思います。これは皇極天皇紀の有名な中大兄皇子と藤原鎌足が最初に出会った場面とされています。

于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子。故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之義氣高逸容止難犯。乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給。敬重特異。
中臣鎌子連、便感所遇、而與舍人曰、殊奉恩澤、過前所望。誰能不使王天下乎。謂宛舍人為驅使也。舍人、便以所語、陳於皇子。皇子大悅。
中臣鎌子連、為人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、挾闚覦社稷之權、歷試接於王宗之中、而求可立功名哲主。便附心於中大兄、疏然未獲展其幽抱。
偶預中大兄於法興寺槻樹之下打鞠之侶、而候皮鞋隨鞠脫落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自玆、相善、俱述所懷。既無所匿。後恐他嫌頻接、而俱手把黃卷、自學周孔之教於南淵先生所。遂於路上、往還之間、並肩潛圖。無不相協。
於是、中臣鎌子連議曰、謀大事者、不如有輔。請、納蘇我倉山田麻呂長女為妃、而成婚姻之昵。然後陳說、欲與計事。成功之路、莫近於玆。中大兄、聞而大悅。曲從所議。
中臣鎌子連、即自往媒要訖。而長女、所期之夜、被愉於族。族謂身挾臣也。由是、倉山田臣憂惶、仰臥不知所為。少女怪父憂色、就而問曰、憂悔何也。父陳其由、少女曰、願勿為憂、以我奉進、亦不復晩。父便大悅、遂進其女。奉以赤心、更無所忌。中臣鎌子臣、舉佐伯連-子麻呂、葛城稚犬養連網田於中大兄曰。云云。

 私のする与太の考えでは、末文の「云云」は上に示した全文に対して「云云(しかしかいへり)」のものと考えています。つまり、何らかの伝聞記事です。このようなことが有ったかもしれないし、無かったかもしれません。日本書紀編纂者は事実認定を下していないと思います。つまり、この部分は伝聞または伝記物語であり、編纂者に何らかの事情があり、日本書紀の編纂時に誰かから指示を受けて、奈良時代後期から平安時代初期に編まれた藤氏家伝の中から大師大織冠伝を引用しているだけと思います。そして編纂者の良心で「云云」を示して、「ここは与太話である」と示唆したのでしょう。
 私は、この「云云」について、従来の解釈のようにこの「文章の下文」、つまり、後続するはずの記事が長文であるからなどの理由で省略されているとは認識していません。ちなみに、「乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐」の文章は中医学の知識から読むと、原因不明の病の軽皇子の滋養強壮の治療の為に、中医学の知識の知識を持つ中臣鎌子が寵妃阿倍氏に軽皇子の治療方法となる房中術を教授したとも読めます。奈良時代後期から平安時代初期なら医師による高貴な人物の寵妃への房中術を教授は大真面目な話ですが、現代から見た時のその教授は非常に卑猥な施術です。
 気を取り直して、日本書紀の孝徳天皇紀に次のような文があります。
1.天豐財重日足姬天皇四年六月、庚戌、天豐財重日足姬天皇、思欲傳位於中大兄、而詔曰、云云。
2.中大兄、退語於中辰鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在。而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心。且立舅以達民望、不亦可乎。於是、中大兄深嘉厥議、密以奏聞。天豐財重日足姬天皇、授璽綬禪位。策曰、咨、爾輕皇子、云云。
3.是日、奉號於豐財天皇、曰皇祖母尊。以中大兄、為皇太子。以阿倍內麻呂臣、為左大臣。蘇我倉山田石川麻呂臣、為右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連、為內臣。增封若干戶、云云。
4.  中臣鎌子連、懷至忠之誠、據宰相之勢、處官司之上。故進退廢置、計從事立、云云。

 記事1.の事例は、推古天皇紀の「則召田村皇子謂之曰、昇天位而經綸鴻基、馭万機以亭育黎元、本非輕言。恒之所重。故汝慎以察之。不可輕言。」や「召山背大兄教之曰、汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宜從。」の表記から推測して、天皇が「思欲傳位於中大兄、而詔曰、云云。」の文章において「思欲傳位於中大兄」と示すように特定の個人に希望を述べるとするならば「謂之曰」や「教之曰」のような表現を使うでしょう。したがって、正規の認証手続きを経た公文書公布での「詔曰」の表現を使わないでしょうし、日本書紀という日本国の正しい歴史を伝える正史にあって、公式の命令や意思表明である「詔」のその内容を省略することは有り得ない話です。つまり、この「云云」は憶測や推測を示していると思われますし、「詔曰」の表現は読者の想像を強制する作為があります。斉明天皇から中大兄に対して「傳位」の「詔」があったのではないかと、それを想像せよとの強制です。逆に考えますと、朝廷に「傳位」に関する、その扱いの記録が存在しないから「云云」の表記なのでしょう。
 記事2.の事例は、後続の記事から、軽皇子と古人大兄との間で、まだ、皇位継承が決まらない最中の記事であることが分かりますし、「策曰、咨、爾輕皇子」の表記の「策」と「咨」との表記のバランスの悪さから伝聞か、想像であることが判ります。つまり、この「云云」は場面の想像を示していると思われます。これも事実を記述しているわけではありません。誰かからの指示を受けての日本書紀の編集者の意見や解釈の挿入です。
 記事3.の事例は、「以大錦冠、授中臣鎌子連」の表記から伝承の記事であることが判ります。この文は大化元年六月の記事ですが、大錦冠は大化三年制定の「七色の十三階の冠」制度での官位を示していますから、未来の記事となり年代が合いません。つまり、後年の伝承を紹介していることになります。弊ブログでは、この記事3.の記事全文を後年の伝承と見ています
 記事4.の事例は、天皇・左大臣・右大臣の存在を無視していますから、完全に「よいしょ」の記事です。「大いに補佐して」のような表記であれば考慮に値しますが、この表記では論評に値しない作文記事です。事実、日本書紀によると孝徳天皇の大化元年七月の即位最初の政治方針は左右大臣に下されていて、内臣なる鎌子は登場しません。それでいて、「故進退廢置、計從事立」はあんまりです。

戊寅、天皇詔阿倍倉梯萬侶大臣・蘇我石川萬侶大臣曰、當遵上古聖王之跡、而治天下。復當有信、可治天下。
已卯、天皇詔阿倍倉梯麻呂大臣・蘇我石川萬侶大臣曰、可歷問大夫與百伴造等、以悅使民之路。

 以上のように、弊ブログで展開した憶測・偏見の視点からの分析では、全てがある人物への希望記事であることが判ります。古来、これらの文章は「中大兄」の孝徳天皇の時代に皇太子への就任と中臣鎌子(多分、鎌足のこと)の政界での地位を示すものとされてきました。しかし、正史としての確定記事の表現形式の「曰、○○○也」の形式を、なぜ、採用せずに、「○○○。云云。」のような伝聞・引用の形式を採用したかです。また、皇極四年(大化元年)六月に、中大兄は孝徳天皇の即位に併せ皇太子になったことになったとしていますが、日本書紀の孝徳天皇紀 大化元年九月の記事では、再び、「中大兄」に戻っています。日本書紀の中でも、この敬称の扱いは辻褄の合わないものになっています。当然、これらは古く専門家の頭を悩ませている問題です。続日本紀の桓武天皇紀の時代の皇太子他戸親王の事例からするとこの敬称問題は中大兄の皇太子からの廃嫡という事件を示唆します。
 さらに、形式論を云うと「中大兄」と「中大兄皇子」は、同一人物ではありません。表記上、「中大兄皇子」は「皇子」の敬称により天皇の夫人以上の妻の子を意味しますが、他の人が「皇子」と言う敬称を持つ時代であれば、その「皇子」の敬称を持たない「中大兄」は皇孫以外の身分の人物です。
 一般名称としての次男の意味として、「中大兄」の名を「大織冠伝物語」の主人公として取り上げる場合では、例え、物語で「皇子」の記事のように見えても、日本書紀や大織冠伝では「中大兄」の名称にあってその人物が舒明天皇の皇子であるとは規定していませんから「中大兄」と呼び捨てにしても問題はありません。孝徳天皇の即位の時に「中大兄」は皇太子になったらしいという伝聞記事が日本書紀に記載してあるため、葛城皇子=東宮開別皇子=中大兄=天智天皇としているわけです。さて、これは正しい判断でしょうか。
 また、同様に中臣鎌子と中臣鎌足が同一人物かは不明で、推定で同一人物とされています。日本書紀において「○○○。云云。」の表記形式の場合は、「中臣鎌子」の表記です。なお、「中臣鎌足」の表記が現れるのは、孝徳天皇紀の白雉五年正月の「壬子、以紫冠授、中臣鎌足連、增封若干戶。」の記事だけのようです。私の妄想・偏見ではこの「鎌足」は後年の誤記であり、「鎌子」が本来の氏姓として日本書紀にあっては正しいと考えます。なお、大織冠伝では、最初に「内大臣、諱鎌足、字仲郎、大倭國高市郡人也。其先出自天児屋根命。世掌天地之祭、相和人神之間、仍命其氏曰大中臣。美気祐卿之長子也。母曰大件夫人。」と表記された後は、本名を呼ぶような不敬な表記でなく「大臣」の尊称で代表されています。
 確認しますが、さて、「中大兄」は誰ですか。また、云云(しかしかいへり)とは、どんな意味でしょうか。
 以下に示す万葉集の歌は、詞書で天皇の青年時代の名称を呼び捨てにしています。また、これらの歌は三部作となっているのですが、集歌13と集歌14との関係は判りますが、集歌15は少し不思議です。そのため万葉集の最終編纂の時代(私の推定で古今和歌集編纂の直前となる平安時代初期)から色々と疑問が投げられていて、歌の定訓が確定していません。ここで紹介するものは「万葉集全訳注原文付 中西進(講談社文庫)」からのものです。

標題 中大兄 近江宮御宇天皇 三山謌一首
標訓 中大兄 近江宮(おふみのみや)御宇(あめのしたしらしめし)天皇(すめらみこと) 三山の歌一首
集歌13
原文 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
訓読 香具山は 畝傍(うねび)ををほしと 耳梨(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらふらしき
意訳 香具山は畝傍山を男らしい者として古い恋仲の耳成山と争った。神代から、このであるらしい。昔もそのだからこそ、現在にも、愛する者を争うらしい。

反謌
集歌14
原文 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
訓読 香具山と耳梨山とあひし時立見に来(こ)し印南(いなみ)国原(くにはら)
意訳 香具山と耳梨山とが争った時に、阿菩の大神が立ち上がって見に来た印南の国原よ。

集歌15
原文 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
訓読 わたつみの豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)射(さ)し今夜(こよひ)の月夜(つくよ)さやけかりこそ
意訳 海上豊かにたなびく雲に落日が輝き、今夜の月は清らかであってほしい。
左注 右一首謌、今案不似反謌也。但、舊本以此謌載於反謌。故今猶載此次。亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。
注訓 右の一首の歌は、今案(かむが)ふるに反歌に似ず。ただ、旧本にこの歌を以ちて反歌に載す。故に今なほ此の次(しだひ)に載す。また紀に曰はく「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に天皇を立てて皇太子となす」といへり。

 ここでは標準的な万葉集の解釈からすると、異常な万葉集の読み方をしますので、与太解釈での万葉集の読みを行う前に突飛となる予備知識を見て頂いて、このnoteの記事へのご来場の方々に洗脳を行ないたいと思います。
 最初に、天智天皇の称号を以って日本書紀に従って見てみますと、舒明天皇紀では葛城皇子または東宮開別皇子、皇極天皇紀では中大兄、孝徳天皇紀では二例を除き皇太子、斉明天皇紀では皇太子の称号を使っています。孝徳天皇紀の特例となる二例は、皇極天皇時代の記事の引用文と古人大市皇子への討伐事件の引用文です。歴史での「中大兄」の名称について、万葉集の編纂者が日本書紀の称号の書き分けを知っている場合は、おおむね、皇極天皇時代の名称として扱っているとの推定が可能です。
 また、皇極四年六月に首皇子の孝徳天皇への就任と同じくして、「中大兄」は皇太子に就任しています。当時、「中大兄」は有力な皇位後継者であったことが推定されますが、大化元年九月の記事に、或る本の参照として古人皇子を吉野太子や古人太子の名称で皇太子相当の立場として呼ぶものがありますから、「中大兄」が孝徳天皇時代の当初から本当に皇太子であったかどうかは確定できません。また、一部に「中大兄」の呼び捨て表記が正しい表記とする解説がありますが、古人大市皇子と首皇子との表記に対する説明がありませんので、私としてはそれを異説としています。
 唐突ですが、大阪府に三国ヶ丘という地名があります。これは古代に摂津・河内・和泉の三国の境が接していたために付けられた地名です。そして、香具山は磯城郡、畝傍山は高市郡、耳成山は十市郡にありますから、小墾田宮の少し北の位置(藤原京とほぼ同じ位置)は大阪府の三国ヶ丘の意味合いにおいて三国の原に相当します。高市皇子の時代では明日香の真神ヶ原が相当します。
 恣意的で与太である史観により既に洗脳された人の視線をもって、万葉集の歌を見て行きます。まず、集歌13の高山=香具山、雲根火=畝傍山、耳梨=耳成山とすることに異論は無いとします。ここで、漢字の用字に注目しますと「雲根火 雄男志等」と記されていますから、歌の解釈では「畝傍山は雄々しい山」と訓読みして解釈しますので畝傍山は男ですし、その三山中心となる畝傍山の位置から神武天皇=天皇(皇太子)を想像します。必然的にそれに寄り添い妻の座を争う香具山と耳成山とは女となります。つまり、歌の意訳は次のようになるでしょう。

集歌13
原文 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉
試訓 香具山(百済)は 畝傍(うねび)(大和)を雄々(をほ)しと 耳成(みみなし)(新羅)と 相争ひき 神代より 如(かく)にあるらし 古(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ 現世(うつせみ)も 妻(の座)を 争ふらしき
試訳 香具山(百済)は畝傍山のように大和の国を男らしい立派な国であると耳成山(新羅)と相争っている。神代も、このような相手の男性の奪い合いがあったとのことだ。昔もそのようだったから現在も百済と新羅が、おなじように同盟国としての妻の座を争っているのだろう。

 さて、皇極天皇時代の中大兄の嬪を見てみますと、蘇我山田麻呂の遠智娘(をちのいらつめ)、その妹の姪娘(めひのいらつめ)、阿倍倉梯麻呂の橘娘(たちばなのいらつめ)が可能性のある候補者です。
 ここで、阿倍氏の本拠は香具山の東方に、蘇我氏の本拠は耳成山の西方に位置します。そして、孝徳天皇の大化年間では阿倍倉梯麻呂は左大臣、蘇我山田麻呂は右大臣です。皇極年間では、孝徳天皇紀の古人皇子征伐の記事から推測して、中大兄は、まだ、古人大兄皇子の倭姫王を妻にしていないと思いますから、遠智娘と橘娘とが正妻の座を争った可能性があります。そのとき、香具山が橘娘で耳成山が遠智娘です。
 これが、洗脳後のとぼけた万葉集の妄想です。
 次に、この視線から集歌14を見てみます。とぼけた解釈では、次のようになります。

集歌14
原文 高山与 耳梨山与 相之時 立見尓来之 伊奈美國波良
試訓 香具山(百済)と耳成山(新羅)と相(あひ)し時立見に来(き)らしいなみ国原(くにはら)
試訳 香具山である百済と耳成山である新羅が対面したときに、その様子を立ちて見に来た。稲穂の美しい大和の平原よ。

 妻問い婚の時代ですし、まだ、中大兄は嬪や夫人を住まわす宮殿を持つ大王ではありません。時に合わせて、それぞれ遠智娘と橘娘との許に通っていたのでしょう。そして、何かの拍子に女性同士が会う機会があったのではないでしょうか。当時、最大の行事は大化元年七月の高麗・百済・新羅の三韓朝貢使団の同時の小墾田宮訪問でしょうか。それとも、皇極元年八月の日本初の四方拝の儀式でしょうか。皇極元年ですと中大兄はまだ十六歳ですから、少し若いと思います。私は、大化元年七月の高麗・百済・新羅の三韓朝貢使団の行列見学に、小墾田宮付近まで遠智娘と橘娘とが出向いて遭遇したのではないかと妄想しています。穿って、中大兄が参列する三韓朝貢使の朝儀の時に、中大兄の妻として遠智娘と橘娘とがその席順を争ったのかも知れません。歌の意訳としては、こちらの方が面白いでしょう。
 ここで、さらに妄想は新たな妄想を呼び起こします。東の山を香具山で橘娘を意味し、西の山を耳成山で遠智娘を意味すると最初にしました。この妄想に三韓の朝貢使団の見学を重ね合わせると、半島での位置関係から東の山の香具山で新羅を、西の山の耳成山で百済を妄想することも可能です。そして、朝鮮半島の覇権を巡って、新羅と百済が大和朝廷に擦り寄る姿にも重なってきます。ちょうど、集歌14の「相之時(相ひし時)」が調(みつぎ)捧呈の行事を示し、三国が高麗・百済・新羅の三韓を示す如くと妄想できるところです。
 以上のようなとぼけた妄想から、集歌15の歌は一気です。

集歌15
原文 渡津海乃 豊旗雲尓 伊理比祢之 今夜乃月夜 清明己曽
試訓 渡津海(わたつみ)の豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)みし今夜(こよひ)の月夜(つくよ)清(さや)明(あけ)くこそ
試訳 船を渡すような入江の水面に豊かに棚引く雲に夕陽を見た。今夜の月夜は清らかに明るいだろう。

 この景色は、次の集歌2の歌と同じです。まだ、崇神天皇七年頃の「亀の瀬」地滑りによる大和盆地が水没して出来た大和盆地湖の余韻の残る風景です。集歌15の歌が播磨灘の海を歌ったものでないことは、集歌13や14の解釈や集歌2からして明らかです。

標題 天皇登香具山望國之時御製謌
標訓 天皇(すめらみこと)の、香具山に登りて望國(くにみ)したまひし時の御(かた)りて製(つく)らしし歌
集歌2
原文 山常庭 村山有等 取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜可國曽 蜻嶋 八間跡能國者
訓読 大和には 群山(むらやま)あれど 取り装(よ)ろふ 天の香具山 騰(のぼ)り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙立ち立つ 海原(うなはら)は 鴎立ち立つ うまし国ぞ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は
私訳 大和には多くの山々があるが、美しく装う天の香具山に登り立って国見をすると、国の平原には人々の暮らしの煙があちこちに立ち登り、穏やかな海原にはあちこちに鴎が飛び交う。立派な国です。雌雄の蜻蛉が交ふような山波に囲まれた大和の国は。
注意 古代では「海原波」の意味は“海水の海“だけを示したものでは無いようです。巻十四(東国の歌) に集歌3498の歌があり、この歌の「海原」は湖沼帯や湿地帯を意味するようです。集歌2の歌の「海原波」が内陸の湖沼帯や湿地帯を示すならば、歌での鴎は繁殖の時期に中ります。つまり、その自然情景からも旧暦三月から五月の初夏の農作業前の国見神事の風景の歌になります。

 集歌15は、とぼけた万葉集の解釈を元にすると、その日の愛人達の遭遇や三韓朝貢使の朝儀に参列した後に、緊張感が解け、ほっとした気持ちで埴安の堤の上から小墾田宮の北方に広がる、夕日の照らされた横に流れる筋雲の懸かる渡津海の海を眺めての歌のように感じられます。推定で旧盆ごろの月齢11日の月ですから、雲を茜に染める日没後には天空に少し赤みのある月があるような風景ですし、集歌2の歌が下敷きにあります。
 なお、ご承知のように、本来の中大兄の三山歌の三部作は、集歌13は大和の後岡本宮付近での歌、集歌14は播磨国稲見野での歌、集歌15は大伯海 (小豆島北方の播磨灘)での歌とするのが有力です。ここから、朝鮮出兵への九州への西下のときの歌であろうとされていて、斉明七年正月の歌と推定されています。日本書紀に載る日程(現在の12月中下旬)と集歌15の歌での季節感が少し合いませんが、それはご愛嬌です。
 また、集歌13の「雲根火雄男志等」を、万葉集の仮名漢字自体に意味を持たさない立場から「畝傍 愛(をほ)しと」と読んで、畝傍山を女、香具山と耳成山を男とする説の方が有力のようです。つまり、集歌13は一人の女性を争った歌とするのが有力です。これらの状況から、現在のところ、集歌13、14および15の定訓は確定していませんが、ここで示した「とぼけた万葉集の読み」が、その仲間に入る可能性はゼロ以下です。あくまで通説を基準に集歌13、14および15の歌を楽しんでください。
 加えて、ブログに載せる拙文「大和盆地の原風景」で示した崇神天皇の時代の「亀の瀬」地滑りによる大和盆地湖は、まったくの与太話です。相手にしないようにしてください。相手にすると、貴方の常識が疑われます。なお、集歌2の歌は、当時には大和盆地に巨大な湖は存在しないことになっていますから、古くから古代の誇大妄想の歌と扱われています。さらに、集歌15(皇極時代)と集歌2(舒明時代)を時代が五十年程度しか離れていないからとして、同じ大和の明日香の風景を詠った歌として関連を持たして集歌15の歌を理解してはいけないのが、古くからの約束です。
 ここでの「万葉雑記 中大兄」が成り立つとしますと、次のように、読み替えて下さい。

阿倍倉梯麻呂の橘娘  : 小足媛
蘇我山田麻呂の遠智娘 : 乳娘

 読み替えても本文の説明は変りませんが、集歌15の歌は、孝徳天皇が同時の三韓朝貢を成功させた歴史的儀式の後の安堵感と、今後の外交政策の希望を示したものになります。
 今回は、「万葉雑記 中大兄」の世界までは、踏み込んでいません。そこまで行くと、とぼけすぎて、と思っています。妄想の世界では、孝徳天皇御製の可能性が高いと思っています。つまり、「亦紀曰、天豊財重日足姫天皇先四年乙巳立天皇為皇太子。」は天皇の方です。日本書紀で「云云(しかしかいへり)」の言葉を、とぼけた視線で妄想すると「中大兄」の正体が不明になってしまいました。
 このような妄想の理由だけではありませんが、古来、「中大兄」の呼称については、敬称表記を含めて議論があるようです。一部には皇太子については「中大兄」と呼び捨てにするのが正史での正式記載法とし、弊ブログ以上のとぼけた発想を下に無茶な解説をするものもあります。では、厩戸皇子はどうなのでしょうか。この論法では「厩戸」と呼ばなければいけないのでしょうか。斯様な敬称論議については、これはこれとして、ここで一度、置きます。
 さて、とぼけた人間の視線で「中大兄」は誰なのかを考えますと、日本書紀の次の記事にヒントがあると思います。

1.   二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女為皇后。后生二男一女。一曰葛城皇子。近江大津宮御宇天皇。二曰間人皇女。三曰大海皇子。淨御原宮御宇天皇。夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛、生古人皇子。更名大兄皇子。又娶吉備國蚊屋采女、生蚊屋皇子。
2.   丙午、殯於宮北。是謂百濟大殯。是時、東宮開別皇子、年十六而誄之。
3.   中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。(舅は、「娶其姨、玉依毘賣命」と同じ用法)
4.   大兄命、是昔天皇所生。而又年長。以斯二理、可居天位。
5.   奉順天皇聖旨。何勞推讓於臣。臣願出家、入于吉野。勤修佛道、奉佑天皇。
6.   戊辰、蘇我臣日向、日向字身刺、讒倉山田大臣於皇太子曰、僕之異母兄麻呂、伺皇太子遊於海濱、而將害之。將反其不久。皇太子信之。
7.   天命開別天皇、息長足日廣額天皇太子也。

 最初に身分を確認します。軽皇子(後の孝徳天皇)は日本書紀に従うと敏達天皇の子の押坂彦人大兄皇子の子の茅渟王の子になります。その姉に皇極天皇がいます。日本書紀では軽皇子と「皇子」の敬称がついていますが、正しくは、「萬德王」で正統な皇位継承権の無い諸王です。また、日本書紀では古人皇子は軽皇子に対して「臣」と称していますが、生得の身分では逆です。古人皇子は夫人の「皇子」ですが、軽皇子は萬德王で「諸王」です。
 そして、正史では「中大兄」と「鎌子」とが主導したことで、諸王である軽皇子が正当な皇子を排除して、天皇の位に就いています。この点を十分に踏まえる必要があります。軽皇子の父親である茅渟王の本拠は、推古天皇紀以降の藤原系中臣氏の本拠と同じ、牧岡神社付近とも云われています。
 このとぼけた視線から、皇極天皇と孝徳天皇の胡散臭さを感じてから、「中大兄」について考えてみたいと思います。
 普通、中大兄は宝皇后の長男である葛城皇子を示すことになっています。この場合は、当時は母親の身分に関わりなく、生まれた順番で称号が与えられると考えなければいけません。つまり、「皇后の長男」を、全ての皇子たちの生まれた順番から、次男だから「中大兄」と称するでしょうか、やはり、「太子」か「皇子」と称するでしょう。そのような先着順のような発想では、皇后・嬪・夫人・采女等の称号の価値があいまいになります。なお、この母親の身分・階級にかかわらず生誕の先着順を基準とする一派とは違い、弊ブログでは卑母の御子である弘文天皇即位説を認めない立場です。
 次に、当時は母親が違えば父親が同じでも婚姻が可能ですので、他人と同じような感覚と思っています。この感覚は、従来の中大兄=葛城皇子の父親中心主義からは異端の思想です。弊ブログでの母親中心主義では、生母の確認が重要になります。ここから「兄」と「異母兄」は違うものと思っています。また、古人皇子の別称が大兄皇子ですが、これは後継者格の男兄弟の順番の「古人=長男」です。ここで、一般名称の「古人大兄」は長男で後継者の意味ですが、それが直ちに葛城皇子に結び付くでしょうか。名称上、萬德王の長男も古人大兄です。
 ここで、とぼけた視線の蛇足的な憶測を述べます。
1.   葛城皇子の葛城は「葛城縣者、元臣之本居也。故因其縣為姓名。是以冀之、常得其縣。以欲為臣之封縣。」の記事から蘇我本宗馬子の本居であったことが判ります。そして、この葛城縣は、巨椋池南岸から淀川東岸の一帯を示していたと思われます。この広大な湿地原野を開発して水田に開拓したのが、日本書紀から天皇家と蘇我本宗です。これに対抗して大和川流域の河内平野を開発したのが、蘇我の分家の「倉山田の蘇我(後の石川)」氏と中臣氏です。
2.   日本書紀の鎌子が鎌足と同じ人物として、日本書紀の「泊瀨仲王、別喚中臣連・河邊臣、謂之曰、我等父子、並自蘇我出之。天下所知。是以、如高山恃之。願嗣位勿輕言。」の記事の中臣連とは、鎌足の父親の中臣連彌氣のことですから、中臣鎌子は蘇我一族です。
3.  中臣鎌足の生前の通称は漢語で「仲郎」で、和語では「中大兄」です。

 さて、日本書紀によると「乙巳の変」の時の宮廷クーデター直後に、中大兄が反蘇我馬子の兵を集めたのが蘇我氏ゆかりの法興寺です。従来から、反蘇我氏の闘争で、蘇我氏ゆかりの法興寺であるにも関わらず中大兄がここに兵を集めたのは、法興寺が当時最大の寺院だったため兵の収容に便利だったのだろうとされています。
 ただ、「子供の常識」では変です。皇室を守るというスローガンで政府首班に対して宮廷クーデターを起こしたのに、なぜ、天皇の住む宮殿に兵を集めなかったのでしょうか。大義名分からすれば天皇の承認を得ている、擁立していることの証として宮殿に兵を集めるほうが最上の戦略・政略のはずです。ところが、日本書紀に従うと、宮殿に皇極天皇、法興寺に中大兄、甘檮岡に蘇我蝦夷の三者・三陣営が鼎立する形ですので、事件は単に中大兄と蘇我蝦夷との私闘とも取れます。それに法興寺の中大兄の陣営に、「乙巳の変」の収拾後に孝徳天皇として即位した軽皇子の参加が記載されていません。さて、「乙巳の変」の時、有力な皇族たちはどこにいたのでしょうか。また、孝徳天皇朝の発足時には左大臣に就任して、朝廷をリードした阿倍倉梯麻呂はどうしていたのでしょうか。
 この「乙巳の変」は、日本書紀からすると、極、少人数のテロ的な宮廷クーデターです。日本書紀の記事では蘇我蝦夷・入鹿の甘檮岡には常に警備兵がいる事になっていますから、まだいいのですが、「乙巳の変」の直後に蘇我氏の法興寺に中大兄を防衛する兵士が既に配備されていたことに疑問があります。
 以上、憶測を示しました。さて、「中大兄」とは誰でしょうか。私の憶測では次の通りです。

 中大兄は萬德王と有間皇子との事績の統合し一人の人物のように紹介したもの。歴史にあっては「乙巳の変」の時に実際は宝皇后(宝中皇命:皇極天皇)は退位せずに、萬德王(後の孝徳天皇)は摂政宮又は太政大臣格の王子の立場のままであった。「中大兄の名」は中臣鎌足の字の「中臣仲郎」からヒントを得て(または本来の呼称)ものであり、架空の人物の仮の名前だった。藤原系の渡来人が奈良時代後期から平安時代初期に物語「大織冠伝」を書き、それが日本紀から日本書紀へと改訂する時に取り込まれた。本来、大化年間での皇太子は有間皇子だった。ただし、これは大和氏族には都合が悪い。
 この妄想からの憶測では、次に示す物語「大織冠伝」に載る「中大兄:萬德王(孝徳天皇)」と蘇我山田石川麻呂大臣の次女に当たる「少女」の婚姻の記事が、日本書紀の大化元年の即位の時の記事と合致します。さて、次女となる娘の名が乳娘だったことから、奈良時代から平安時代初期での漢字に対する知識が非常に高かった時代では、「乳」という漢字の意味合いに「乳女」や「乳駒」の言葉が示すように幼い女=少女、幼い駒=仔馬ですから、大織冠伝を編纂した人物は乳娘=幼い女=少女の表記を採用した可能性があります。

日本書紀:天万豊日天皇 孝徳天皇
大化元年秋七月丁卯朔戊辰、立息長足日廣額天皇女間人皇女、為皇后。立二妃。元妃、阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛。生有間皇子。次妃、蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘。

大織冠伝
中大兄從之、遂聘女于山田臣之家、山田臣許之及于三春忽至百兩新迎。其弟武蔵挑女將去、山田臣憂惶、不知所爲、少女在傍見父愁色、問曰、何悔之甚。父陳其由、少女曰、妾雖无西施之貌、當有莫、姆之情、願以妾納之。其父大悦、終進少女。

 これに関連し、万葉集に載る下記の推定斉明四年十月の集歌10の歌の詞書を頼りにすると、この間人皇女は中皇命と称されて準天皇の扱いですが、歌では「徃于紀温泉」の「徃」の字の表記から、天皇でも先の皇后でもありません。敬語の使い方にあっては実に不思議です。本来、孝徳天皇が死亡した場合、間人皇女が日本書紀に示すように正しく孝徳天皇の皇后だったらば、年少でも皇太后に相当しますから、血筋と年齢からしても孝徳天皇の逝去後の中継ぎとして天皇即位なら先の宝皇太后(斉明天皇)の再登板の必要は無いはずです。歴史での解釈の可能性は、唯一、間人皇女の有間皇子との婚姻(日本書記では再婚に相当)です。この場合は殺害された有間皇子の妻の立場ですから、それを避けるとすると宝皇太后の再登板が必要となります。

標題 幸于紀温泉之時、額田王作謌
標訓 紀温泉(きのゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
集歌9
原文 莫囂圓隣之 大相七兄爪謁氣 吾瀬子之 射立為兼 五可新何本
訓読 染(そ)まりなし御備(おそな)え副(そ)えき吾(あ)が背子し致(いた)ちししけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
私訳 一点の穢れなき白栲の布を奉幣に副えました。吾らがお慕いする君が、梓弓が立てる音の中、その奉幣をいたしました。大和の橿原宮の元宮であります、この熊野速玉大社を建てられた大王(=神武天皇)よ。

標題 中皇命、徃于紀温泉之時御謌
標訓 中(なかつ)皇命(すめらみこと)の、紀温泉(きのゆ)より徃へりましし時の御(かた)りし歌
集歌10
原文 君之齒母 吾代毛所知哉 磐代乃 岡之草根乎 去来結手名
訓読 君し代も吾が代も知るや磐代(いはしろ)の岡し草根(くさね)をいざ結びてな
私訳 貴方の寿命も私の寿命も司るという磐代の丘の言い伝えにしたがって、この丘の木の若枝を、さあ結びましょう。

集歌11
原文 吾勢子波 借廬作良須 草無者 小松下乃 草乎苅核
訓読 吾が背子は仮廬(かりほ)作らす草(くさ)無くは小松が下の草を刈らさね
私訳 私の愛しい貴方が仮の宿を作る草が無いならば、小松の下の草をお刈りなさい。

集歌12
原文 吾欲之 野嶋波見世追 底深伎 阿胡根能浦乃 珠曽不拾 (或頭云 吾欲 子嶋羽見遠)
訓読 吾(あ)が欲(ほ)りし野島は見せつ底(そこ)深き阿胡根(あこね)の浦の珠ぞ拾(ひり)はぬ (或る頭(かしら)に云はく、吾(あ)が欲(ほ)りし子島(こしま)は見しを)
私訳 私が見たいと思っていた野島を見せてくれましたが、まだ、海の底の深い阿胡根の浦の真珠を手で拾い上げてくれません。
左注 右、檢山上憶良大夫類聚歌林曰、天皇御製謌云々。
注訓 右は、山上憶良大夫の類聚歌林を檢(かむが)がふるに曰はく「天皇(すめらみこと)の御(かた)りて製(つく)らしし謌、云々」といへり。

 妄想を纏めますと、歴史の可能性として、皇極天皇時代は「宝皇太后+摂政の古人皇子」、孝徳天皇の大化時代は「宝皇太后+摂政の萬德王+有間皇太子」、白雉時代は「宝皇太后+摂政の萬德王(棚上げ)」の組み合わせではないでしょうか。時代として、隋の煬帝皇帝が指摘するように、推古天皇の時代、神事祭祀を主る巫女である推古天皇と政治と行政を主る大王である聖徳太子との宗政分離の巫女・大王の二人による統治です。この姿が継続しているならば、当然と言えば当然の政治体制です。参考に、天皇という称号の誕生は持統天皇時代頃とされていて、本来なら、話題とします時代に「天皇」は存在しません。それぞれに和語の「すめらみこと(須賣良美己止)」と「おほきみ(於保幾三)」との別々の称号を持つ支配者です。
 大化時代の萬德王(孝徳天皇)は新羅重視の政策ですが、白雉年間になり新羅使節団追い返し事件からして、左右大臣の巨勢徳多や大伴長徳等は百済重視の立場です。このため、新羅重視派の萬德王が率いる難波宮の政権が崩壊し、大和の三輪・明日香への皇族・家臣団の退去事件(殺害を伴うクーデターか)が発生したと思っています。この退去事件の旗頭が葛城太子です。
 憶測するに、有間皇太子は河内の蘇我石川・阿部系の利益代表で、葛城太子は山背の蘇我本宗系の利益代表です。その両者の中間にいたのが宝皇太后です。このため、萬德王の後も微妙なバランスでにらみ合いが続いていたと思っています。ここで建前として、斉明天皇の重祚には間人皇女が皇后や皇太后の身分であってはおかしいので、孝徳天皇時代、間人皇女はあくまで有間皇太子の正妃だったと思っています。可能性として白雉年間から斉明4年まで有間皇太子が、政治的バランスの中で「宝皇太后+摂政の有間皇太子」だったかもしれません。その後の、斉明4年11月の有間皇太子暗殺事件後に、斉明天皇の「宝皇太后+摂政の葛城太子」、天智天皇即位前紀の「間人皇女+摂政の葛城太子」、天智天皇の「倭皇后+摂政の葛城太子」の形で推移したのでしょう。
 ここから、祭祀を主る皇極(斉明)天皇の時代には、政治を主る側には順に古人皇子、萬德王、有間皇子、葛城皇子の四人の皇太子(大王)がいたことになります。一方で、皇極(斉明)紀に、順番で皇太子(大王)となったこの四人の皇太子を固有名称により区分することなく、単に「皇太子」と表記したとしても、それは正史記述において違反ではないはずです。ただ、紛らわしいだけです。もし、二番目に摂政となった萬德王を孝徳天皇とするならば、次の摂政となった有間皇太子の正妃の間人皇女を皇后と称するのは当然の姿です。だだ、校訂時に正しく校訂するのを失念して、「立息長足日廣額天皇女間人皇女、為皇后。」の記事を大化元年に置いたままにしただけです。本来は校訂時には原稿記事から削除すべき内容です。
 さて、宝皇女と萬德王は、秦氏(漢王)系の渡来人の茅渟王の子です。一族での身分を考えると、推古天皇時代では蘇我氏‐中臣氏‐秦氏の上下関係です。これが、奈良時代になると、大雑把な掴みで藤原(中臣)氏‐{石川(蘇我)氏}‐葛城(秦)氏のような関係に変化します。日本書紀の孝徳天皇紀は藤氏家伝大織冠伝の強い影響を受けていますから、藤原氏の大織冠伝の立場からすれば、藤原氏‐(石川氏)‐葛城氏の関係を下にした歴史感からの萬德王の立ち位置と思います。これなら、藤原氏から見て呼び捨てとなる「中大兄」の表記の扱いです。
 およそ、秦氏の技術と経済力を背景に阿倍倉梯麻呂の娘婿である萬德王が、姉の宝皇后の暗黙の了解の下に蘇我倉山田石川麻呂と有間皇子を旗頭として掲げることで「乙巳の変」が成立したのでしょう。それが、左右大臣の区分です。また、有間皇子は阿倍一族の最初の大王です。その阿倍倉梯麻呂が死ねば、当然、無理して生まれた有間皇子の政権は崩れます。
 歴史をドラマと捕らえますと、エンドロールに次のような言葉が記されていたかもしれません。

「とぼけた中大兄物語」  完
脚本演出: 阿倍倉梯麻呂
主演男優: 萬德王
主演女優: 宝皇后
助演男優: 有間皇子
助演女優: 間人皇女
通行人1: 蘇我倉山田石川麻呂
通行人2: 蘇我蝦夷
下男  : 中臣鎌人

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