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万葉集なのに漢文ですか

 万葉集には和歌に付けられた漢文が適切に読めなければ、その歌をきちんと解釈出来ない歌があります。最初に紹介する大伴池主が大伴家持に贈った歌四首もそうです。問題は、鎌倉時代から昭和時代までは、基本的に和歌の前に置かれた解説文となる、いわゆる、前置漢文の序文などは万葉集の和歌の鑑賞の時には考慮しない伝統があり、そのため、漢文と和歌とを一体として扱うことはしませんでした。加えて長歌や旋頭歌などは古今和歌集の短歌とは違うスタイルですので、それを和歌として適切に評価はしませんでした。また、和歌の鑑賞では古今和歌集以降の短歌だけを和歌として鑑賞するスタイルであり、同時に短歌一首ごとに単独にそれを鑑賞し、数首が一つのテーマでまとまった歌群のような形で一つの歌群として鑑賞することもしません。最大の可能性が古今和歌集でも扱われる相聞歌について、それを相聞の和歌として二首を一組として鑑賞します。時代として、古今和歌集以降、民衆の集団歌の一部となる歌垣歌や旋頭歌などは貴族が詠うものではないとして、歴史の闇の中へ消えていきますから、当然と言えば当然です。
 さて、以下に紹介する集歌4128の歌から集歌4131の歌まで、これらの歌を鑑賞する時、付けられた漢文書簡の句「表裏不同、相違何異」の言葉を理解し、詠い主の池主自身は「物所貿易下吏」とし、読み手の相手となる家持を「貿易人断官司」と表現していることに注目する必要があります。そうすれば、池主と家持とが和歌で遊んでいることが、最初から判りますし、前置漢文自体が「このような遊びですよ」と告げるために付けられていることが判ります。前置漢文の説明は、この歌が日本語の同音異義語の遊びの歌であり、紀貫之たちが古今和歌集で大切にした掛け詞により歌に多重性を持たせた和歌スタイルの最初期に当たる歌であるため、そのような多重性を持った歌であることを鑑賞する人々に知って貰う必要があったためと思われます。さらにこれらの4首の歌は一塊の歌群として相互に連携させて解釈・鑑賞する必要があります。ただ、掛け詞技法の歌は古今和歌集から本格的に生まれたと教育を受けた和歌の専門家では気が付かない可能性を持った前置漢文の言葉です。
 さて、漢文書簡からすると、最初に遊びの歌を贈ったのは家持です。それを池主は「表裏不同、相違何異」と記し、その遊びの面白みを発見したことを宣言しています。そして、同じ趣向の歌を返すとしています。実に説明を聞けば、「ふん、なんだ」の世界です。そして、「前にも似たような話を聞いたことがある。繰り返しなら、つまらない」です。なお、最初に大伴家持がどのような歌を詠ったか、また、どのような歌を返したかは記録が残っていませんし、万葉集にも載りません。
 参考として勝寶元年11月12日付けのこの書簡があり、それに対して現在不明の家持の返書、さらに万葉集に載る勝寶元年12月15日付けの池主の再返書があります。このころに同音異義語の遊びの歌の交換があり、それが越中方面の識者、さらに都の識者に伝わったのじゃないでしょうか。

越前國掾大伴宿祢池主来贈戯謌四首
標訓 越前國の掾大伴宿祢池主の来贈(おこ)せる戯(たはぶ)れの謌四首
<前置漢文>
忽辱恩賜、驚欣已深。心中含咲、獨座稍開、表裏不同、相違何異。推量所由、率尓作策歟。明知加言、豈有他意乎。凡貿易本物、其罪不軽。正贓倍贓、宣惣并満。今、勒風雲發遣微使。早速返報、不須延廻
勝寶元年十一月十二日、物所貿易下吏
謹訴、貿易人断官司 廳下
別曰。可怜之意、不能點止。聊述四詠、准擬睡覺

<標訓>
忽ちに恩賜(おんし)を辱(かたじけな)くし、驚欣(きやうきん)已(すで)に深し。心の中に咲(ゑみ)を含み、獨り座りて稍(ようや)く開けば、表裏同じからず、相違何ぞ異れる。所由(ゆゑよし)を推し量るに、率(いささか)に策を作(な)せるか。明かに知りて言を加ふること、豈、他(あだ)し意(こころ)有らめや。凡そ本物と貿易(まうやく)するは、其の罪軽からず。正贓(しやうさう)倍贓(へいさう)、宣しく惣(そう)と満(みつ)とを并せむ。今、風雲を勒(ろく)して微(わず)かに使ひを發遣(つかは)す。早速(すみやか)に返報(かへりごと)して、延廻(のぶ)るべからず。
勝寶元年十一月十二日、物の貿易(まうやく)せらえし下吏(げり)
謹みて貿易の人を断る官司の廳下に訴(うつた)ふ。
別(べち)に曰す。可怜(かれい)の意(こころ)、點止(もだる)ることを能はず。聊(いささ)かに四詠を述べて、睡覺(すいかく)に准擬(なぞ)ふ。
<標訳>
早速に御物(=書簡)を頂き身を縮める思いで、深く驚喜しました。心の内に喜びを持ち、独り部屋に座って、早速、御物を開くと、表と裏とは(=表の意味と裏の意味)同じではありません、その相違は、どうして、違っているのでしょうか。その理由を推し量ると、何らかの秘策を為されたのでしょうか。その秘策をはっきりと知って言葉を加えることに、本意に相違することがあるのでしょうか。およそ、本物と紛い物とを替えることは、その罪は軽くはありません。不法に財を成す罪に複数の犯罪を為す罪を付加するように、よろしく、惣(=一般に、表の意味)に満(=内実、隠された意味)を併せます。今、風雲に乗せて賤しくも使いを送ります。早々に御返事なされて、遅滞はしないで下さい。
勝寶元年十一月十二日に、御物を紛い物とに替えた下吏
謹んで、本物を紛い物に替えた人を裁判する官司のもとに申し出ます。
追伸して、申し上げます。面白がる気持ちを、黙っていることが出来なくて、ささやかな四首の詩を詠い、眠気覚ましの品となぞらえます。

集歌4128
原文 久佐麻久良 多比能於伎奈等 於母保之天 波里曽多麻敝流 奴波牟物能毛賀
表歌
訓読 草枕旅の翁(おきな)と思ほして針ぞ賜へる縫はむものもが
私訳 草を枕とする苦しい旅を行く老人と思われて、針を下さった。何か、縫うものがあればよいのだが。
裏歌
試訓 草枕旅の置き女(な)と思ほして榛(はり)ぞ賜へる寝(ぬ)はむ者もが
試訳 草を枕とする苦しい旅の途中の貴方に宿に置く遊女と思われて、榛染めした新しい衣を頂いた。私と共寝をしたい人なのでしょう。

集歌4129 
原文 芳理夫久路 等利安宜麻敝尓 於吉可邊佐倍波 於能等母於能夜 宇良毛都藝多利
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)取り上げ前に置き反さへばおのともおのや裏も継ぎたり
私訳 針の入った袋を取り出し前に置いて裏反してみると、なんとまあ、中まで縫ってある。
裏歌
試訓 針袋取り上げ前に置き返さへば己友(おのとも)己(おの)や心(うら)も継ぎたり
試訳 針の入った袋を取り出し前に置いて、お礼をすれば、友と自分との気持ちも継ぎます。

集歌4130 
原文 波利夫久路 應婢都々氣奈我良 佐刀其等邇 天良佐比安流氣騰 比等毛登賀米授
表歌
訓読 針袋(はりふくろ)帯(お)び続(つつ)けながら里ごとに照(てら)さひ歩けど人も咎(とが)めず
私訳 針の入った袋を身に付けて、里ごとに針を輝かせ自慢して歩き回わるが、誰も気に留めない。
裏歌
試訓 針袋叫(を)び続(つつ)けながら里ごとに衒(てら)さひ歩けど人も問(と)がめず
試訳 針の入った袋、売り声を叫びながら里ごとに売り歩くが、誰も呼び止めてくれない。

集歌4131 
原文 等里我奈久 安豆麻乎佐之天 布佐倍之尓 由可牟登於毛倍騰 与之母佐祢奈之
表歌
訓読 鶏(とり)が鳴く東(あづま)を指して塞(ふさ)へしに行かむと思へど由(よし)も実(さね)なし
私訳 鶏が鳴く東を目指しているが、吉凶占いで行く方向が塞いでいるので、行こうと思うがどうしようもありません。
裏歌
試訓 鶏(とり)が鳴く吾妻(あづま)を指して相応(ふさ)へしに行かむと思へど由(よし)も実(さね)なし
試訳 鶏が鳴く東、その言葉のひびきではないが、吾が妻に成ることを目指して、似つかわしい人(=娘女)に成ろうと思うが、手だても、その実りもない。
右謌之返報謌者、脱漏不得探求也
注訓 右の謌の返報の謌は、脱漏して探り求むるを得ず。

 では、次の歌はどうでしょうか。この歌も種を明かされば、「ふん、なんだ、たった、それだけのことか」というものです。この歌に付けられた漢文に「誘兵衛云開其荷葉而作」とありますから、ある人物が歌の創作で有名な右兵衛に対して、即興でお題に従った歌を作ることを求め、右兵衛がその求めに応じて作った歌です。その時の条件が「開其荷葉」です。この「開」と云う言葉が歌を鑑賞する時に重要です。「使」や「応」などの言葉ではありません。およそ、歌を鑑賞する人がこの「開」と云う言葉の意味が判らなければ、万葉時代の和歌の世界の怖さは判らないと思います。

集歌3837 
原文 久堅之 雨毛落奴可 蓮荷尓 渟在水乃 玉似将有見
訓読 ひさかたの雨も降らぬか蓮葉(はちすは)に渟(とど)まる水の玉に似る見む
私訳 遥か彼方から雨も降って来ないだろうか。蓮の葉に留まる水の玉に似たものを見たいものです。
右謌一首、傳云有右兵衛。(姓名未詳) 多能謌作之藝也。于時、府家備設酒食、饗宴府官人等。於是饌食、盛之皆用荷葉。諸人酒酣、謌舞駱驛。乃誘兵衛云開其荷葉而作。此謌者、登時應聲作斯謌也
<注訓>
右の謌一首は、傳へて云はく「右兵衛(うひょうえ)なるものあり(姓名は未だ詳(つばび)らならず)。 多く謌を作る藝(わざ)を能(よ)くす。時に、府家(ふか)に酒食(しゅし)を備へ設け、府(つかさ)の官人等(みやひとら)を饗宴(あへ)す。是に饌食(せんし)は、盛るに皆荷葉(はちすは)を用(もち)ちてす。諸人(もろびと)の酒(さけ)酣(たけなは)に、謌舞(かぶ)駱驛(らくえき)せり。乃ち兵衛なるものを誘ひて云はく『其の荷葉を開きて作れ』といへば、此の謌は、登時(すなはち)聲に應(こた)へて作れる、この謌なり」といへり。
<注訳>
右の歌一首は、伝えて云うには「右兵衛と云う人物がいた。姓名は未だに詳しくは判らない。多くに歌を作る才能に溢れていた。ある時、衛府の役宅で酒食を用意して、衛府の人達を集め宴会したことがあった。その食べ物は盛り付けるに全て蓮の葉を使用した。集まった人々は酒宴の盛りに、次ぎ次ぎと歌い踊った。その時、右兵衛を誘って云うには『その荷葉を開いて歌を作れ』と云うので、この歌は、すぐにその声に応えて作ったと云う歌」と云う。

 再度、確認します。歌のお題は「開其荷葉」です。漢文の直読みでは「そのハスを開け」です。宴会での酒の肴がハスの葉の上に盛られていたことから、提示されたお題です。目の前のハスの葉は広げられた葉です。さて、こうした時、お題の「開其荷葉」とは何を意味するのでしょうか。
 このように考えた時、実は、この歌は万葉集の中でも屈指のなぞ解きの歌なのです。そして、鑑賞において人麻呂歌集の歌を原文から知っていると云うことを求める歌でもあります。つまり、表記された歌を眺めるのと同時に言葉として詠った時の歌をも楽しむ必要がある歌なのです。ただ、鎌倉時代以降の漢字交じり平仮名スタイルで文字化された歌だけを「ああだ、こうだ」と論評するような歌ではありません。
 勿体ぶりました。
 さて、この歌は左注に記されるように、当時、評判の和歌の歌い手であった衛府に勤める人物が酒宴を盛り上げるために「荷葉(ハス)」の文字を開く、つまり、文字の形を分解して歌を詠ったとありますから、この歌を鑑賞するときには表面上の口唱した歌の鑑賞だけでなく、その「なぞなぞ」に答える必要があります。
 そこで、「荷葉」の文字を開いて「廾何廾世木」(「廾」は「ソウ・サ」と訓む)として「さかさせき」と訓み、「探させき」と推理する必要があります。その「誰を探すか」と云うと、歌の表記である「久堅之雨毛落奴可」と「渟在水乃玉似将有見」の意味合いから、柿本人麻呂の挽歌の一節と日本書紀に示す天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)を想い、亡くなられ法要された「渟在」であり、「玉似将有見」である「草壁王(皇子)」を「荷葉」に探したと思われます。つまり、草壁皇子は仏として蓮葉の上にいらっしゃることになります。
 こうした時、集歌3837の歌は二重のなぞ掛けを持った万葉集でも屈指のなぞなぞ歌となり、万葉時代の風流人の中でも「多能謌作之藝」とされる人に相応しくなります。それで、万葉集 巻十六に左注を付けて採録されたのでしょう。ちなみに以下に紹介する集歌167の草壁皇子への挽歌の前半部は天渟中原瀛真人の諱を持つ天武天皇の生前の事績を詠い、後半部が天皇への就任が期待された草壁皇子の急逝を嘆く構成となっています。

日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麿作歌一首并短歌
標訓 日並皇子尊の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首并せて短歌
集歌167
<原文>
天地之 初時 久堅之 天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 ゞ座而 神分 ゞ之時尓 天照 日女之命 天乎婆 所知食登 葦原乃 水穂之國乎 天地之 依相之極 所知行 神之命等 天雲之 八重掻別而 神下 座奉之 高照 日之皇子波 飛鳥之 浄之宮尓 神髄 太布座而 天皇之 敷座國等 天原 石門乎開 神上 ゞ座奴。
吾王 皇子之命乃 天下 所知食世者 春花之 貴在等 望月乃 満波之計武跡 天下 四方之人乃 大船之 思憑而 天水 仰而待尓 何方尓 御念食可 由縁母無 真弓乃岡尓 宮柱 太布座 御在香乎 高知座而 明言尓 御言不御問 日月之 數多成塗 其故 皇子之宮人 行方不知毛
<試訓>
天地し 初めし時 ひさかたし 天の河原に 八百万 千万神し 神集ひ 集ひ座して 神分ち 分ちし時に 天照らす 日女し尊 天をば知らしますと 葦原の 瑞穂し国を 天地し 寄り合ひし極 知らします 神し命と 天雲し 八重かき別けて 神下し 座せまつりし 高照らす 日し皇子は 飛鳥し 浄し宮に 神ながら 太敷きまして 天皇(すめろぎ)し 敷きます国と 天つ原 石門を開き 神あがり あがり座しぬ。
わご王 皇子し命の 天つ下 知らしめしせば 春花し 貴からむと 望月の 満はしけむと 天つ下 四方し人の 大船し 思ひ憑みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしませか 由縁もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座し 御殿を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさぬ 日月し 数多くなりぬる そこゆゑに 皇子し宮人 行方知らずも
<試訳>
天地が初めて現れたとき、遠く彼方の天の川原に八百万・一千万の神々が神の集会にお集まりになり、それぞれの神の領分を分かたれたとき、日が差し昇るような太陽の女神は天を統治なされると、葦原の豊かに稲穂を実らせる国を天と地が接する地上の果てまで統治なされる神の皇子として、天雲の豊かに重なる雲を掻き分けて、この地上に神として下りなされていました天まで高くその輝きで照らされる日の皇子は、飛ぶ鳥の浄御原の宮に、神でありながら宮殿を御建てになられ、天の皇子が統治なされる国と天の原への磐門を開き、天の原に神登られなされた。
私の王である皇子様は天下を治めなされると春に花が咲くように貴くあられるだろう、満月のように人々を満たされるだろうと、皇子が御統治なされる国のすべての人は、大船のように思い信頼して、大嘗祭を行う天の水を 天を仰いで待っていると、どのように思われたのか、理由もないのに、真弓の丘に御建てになられた宮殿を天まで高くお知らせになられて、毎朝に皇子のお言葉を賜ることのない日月が沢山になって、そのために、竹のように繁栄する皇子に仕える宮人は、どうしたらいいのか判らない。

 なお、普段の解説では左注の漢文の「開其荷葉而作。此謌者、」の文章で「開」は「関」、「此」はまぎれの挿入として、「関其荷葉而作歌者」の誤記として「その荷葉に関(か)けて歌を作れといへれば」と解釈します。つまり、和歌の中に「荷葉、又は蓮荷」の言葉が有れば、それで十分に求めに応じたと解釈しての誤記説です。
 この誤記説は、結局、「開」の字での「開其荷葉而作」の漢文の意味が理解できないと云うところに起因します。それで漢文が示す意図が理解できない悔しさから「校訂」をします。鎌倉時代以降に主流になった原文を読みやすく翻訳した、校本の訓読み万葉集だけに馴染んでいる人には、本来の漢文の文章も、また、漢語と万葉仮名と言う漢字だけで表記された原文和歌も、その意図するものが理解出来ないでしょう。時には、そのような本来の万葉集の形を見たことが無いかもしれません。テクストとして訓読み万葉集に万葉集原文を添えて載せると云うものは平成前期頃までは邪道とされていましたから、それで研究者が鑑賞する当人の理解水準に合わせて万葉集の記述/原文を任意に「校訂」して別な記述/原文に変えて研究成果だとするもの、それはそれで仕方がないのかもしれません。
 さて、「なんだ、それだけのことか」という話題での与太話はさておき、集歌3837の歌は人麻呂歌集の集歌167などの歌を知っていることが根底にあると説明しました。
 以下はおまけのようなものですが、そこでさらに万葉人にとって人麻呂歌集を知っているのを前提とした歌を紹介しようと思います。
 最初に、また登場しますが、池主と家持との和歌遊びでの歌です。

越前國掾大伴宿祢池主来贈謌三首
以今月十四日、到来深見村、望拜彼北方。常念芳徳、何日能休。兼以隣近、忽増戀。加以先書云、暮春可惜、促膝未期。生別悲号、 夫復何言。臨紙悽断。奉状不備
<訓読み>
三月一五日、大伴宿祢池主
標訓 越前國の掾大伴宿祢池主の来贈(おこ)せる謌三首
今月十四日を以ちて、深見村に到来(いた)り、彼の北の方を望拜(のぞ)む。常に芳徳を念ひ、何(いづれ)の日に能く休まむ。兼ねて隣近なるを以ちて、忽ちに戀を増す。加へて以ちて先の書に云はく「暮春は惜しむべし。膝を促(うな)がすを未だ期せず」といふ。生別の悲しびを号(な)き、 夫れ復(また)何すとか言はむ。紙に臨みて悽断す。状を奉じること不備。
<訳文>
三月一五日に、大伴宿祢池主
標注 越前國の掾大伴宿祢池主が贈り寄こす謌三首
今月十四日に深見村に行き、その北の方を眺めました。いつも貴方の芳徳を念い、どのような日にどうして貴方へ寄せる尊敬の念を休めることがあるでしょうか。以前より任官の地が隣近であることから、いつも尊敬する気持ちを持っています。それに加えて、先の書に述べられるには「暮春の風情は名残惜しいもので、貴方と共に風景を楽しむことを果たしていない」とあります。貴方にお会えできないことを悲しんで嘆き、 そして、それをどのように表しましょうか。紙に向かって悲しみが極まります。便りを差し上げる、その内容が上手ではありません。

三月一五日に、大伴宿祢池主
一 古人云
標訓 一、古(いにしへ)の人が云ふには
集歌4073 
原文 都奇見礼婆 於奈自久尓奈里 夜麻許曽婆 伎美我安多里乎 敝太弖多里家礼
訓読 月見れば同じ国なり山こそば君が辺(あたり)を隔(へだ)てたりけれ
私訳 月を眺めると同じ国です。でも、山が、貴方との間を隔てています。
注意 古の人とは柿本人麻呂のことです。
参考歌
集歌2420 
原文 月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
訓読 月し見ば国し同じぞ山へなり愛(うつく)し妹し隔(へな)りたるかも
私訳 月を見るとお互いに住む国は一緒ですが、山が隔てているので愛しい貴女との間に心の隔たりがあるのでしょうか。

 一 属物發思
標訓 一、物に属(つ)きて思(おもひ)を發(おこ)せる
集歌4074 
原文 櫻花 今曽盛等 雖人云 我佐不之毛 支美止之不在者
訓読 桜花今ぞ盛りと人は云へど我寂ししも君としあらねば
私訳 桜花は、今が盛りと人は云ひますが、私は寂しく思う。貴方と一緒でないので。
参考歌
集歌1855 
原文 櫻花 時者雖不過 見人之 戀盛常 今之将落
訓読 桜花時は過ぎねど見し人し恋ふる盛りと今し散るらむ
私訳 桜花の盛りの時節はまだ過ぎてはいませんが、花を眺める人が思い浮かべる桜花の盛りですと、ただ今、花が散って逝くのでしょう。

 一 所心謌
標訓 一、所心(しょしん)の謌
集歌4075 
原文 安必意毛波受 安流良牟伎美乎 安夜思苦毛 奈氣伎和多流香 比登能等布麻泥
訓読 相(あひ)念(おも)はずあるらむ君をあやしくも嘆(なげ)きわたるか人の問ふまで
私訳 私がお慕しするほどには心を留めて頂けない貴方を、私は不思議なほどに嘆き続けるのでしょうか。人がいぶかしむほどに。
参考歌
集歌2620 
原文 解衣之 思乱而 雖戀 何如汝之故跡 問人毛無
訓読 解衣(とききぬ)し思ひ乱れに恋ふれども何(な)そ汝(な)しゆゑと問ふ人もなき
私訳 脱ぎ放しにした衣のように心を乱してあの人を恋い焦がれるが「どうした、お前の今の様子は」と尋ねる人もいません。

 越中國守大伴家持報贈謌四首
標訓 越中國の守大伴家持の報(こた)へ贈りたる謌四首
一 答古人云
標訓 一、古の人の云へるに答へる
集歌4076 
原文 安之比奇能 夜麻波奈久毛我 都奇見礼婆 於奈自伎佐刀乎 許己呂敝太底都
訓読 あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を情(こころ)隔(へだ)てつ
私訳 足を引くような険しい山はないのがよい。月を眺めると同じ里だと思うのに、山が心を隔ててしまっている。
注意 集歌4073の歌は人麻呂の集歌2420の歌の一部を変えたものですが、集歌4076の歌はその人麻呂の集歌2420の歌の歌意に沿って応歌としています。
参考歌(再掲)
集歌2420
原文 月見 國同 山隔 愛妹 隔有鴨
訓読 月し見ば国し同じぞ山へなり愛(うつく)し妹し隔(へな)りたるかも
私訳 月を見るとお互いに住む国は一緒ですが、山が隔てているので愛しい貴女との間に心の隔たりがあるのでしょうか。

 一 答属目發思、兼詠云遷住舊宅西北隅櫻樹
標訓 一、目に属(つ)けて思(おもひ)を發(おこ)せるに答へ、兼ねて遷り住みたる舊(ふる)き宅(いへ)の西北の隅の櫻樹を詠みて云へる
集歌4077 
原文 和我勢故我 布流伎可吉都能 佐具良婆奈 伊麻太敷布賣利 比等目見尓許祢
訓読 吾が背子が古き垣内(かきつ)の桜花いまだ含めり一目見に来ね
私訳 私の大切な貴方よ、古い垣の内にある桜花は、未だ、つぼみです。一目、見に来て下さい。
参考歌
集歌3967 
原文 夜麻我比尓 佐家流佐久良乎 多太比等米 伎美尓弥西氐婆 奈尓乎可於母波牟
訓読 山峽(やまかひ)に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ
私訳 山峡に咲いた桜を、ただ一目、病の床に伏す貴方に見せたら、貴方はどのように思われるでしょうか。

 一 答所心、即以古人之跡、代今日之意
標訓 一、所心(しょしん)に答へ、即ち古の人の跡を以ちて、今日の意に代へたる
集歌4078 
原文 故敷等伊布波 衣毛名豆氣多理 伊布須敝能 多豆伎母奈吉波 安賀未奈里家利
訓読 恋ふと云ふはえも名付けたり云ふすべのたづきもなきは吾(あ)が身なりけり
私訳 「恋ふ」という言葉は、よくぞ、名付けたものです。それ以外に表す言葉もないのは、かえって、私の身の方です。
注意 標に「即以古人之跡」とありますので、集歌4073の歌の例から人麻呂の歌から次の歌を想像してみました。
参考歌
集歌2388 
原文 立座 態不知雖唯念 妹不告 間使不来
訓読 立ちし坐(ゐ)したづきも知らず思へども妹し告げねば間使(まつかひ)し来(こ)ず
私訳 立っていても座っていてもこの恋心を表すことの方法を知らず、貴女を慕っていても貴女にそれを告げなくては、貴女から便りの使いも来ません。

 一 更矚目
標訓 一、更に目に矚(つ)ける
集歌4079 
原文 美之麻野尓 可須美多奈妣伎 之可須我尓 伎乃敷毛家布毛 由伎波敷里都追
訓読 三島野(みしまの)に霞たなびきしかすがに昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
私訳 三島野に霞がたなびくが、それでも、昨日も今日も雪が降っている
参考歌
集歌1427
原文 従明日者 春菜将採跡 標之野尓 昨日毛今日毛 雪波布利管
訓読 明日(あす)よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日(きのふ)も今日(けふ)も雪は降りつつ
私訳 明日からは春の若菜を摘もうと。その人の立ち入りが禁じられた野に、昨日も今日も雪が降り続く。
注意 標に「更矚目」の「矚」は「視之甚也」の意味を持つ漢字です。昨日も今日も降り続く雪の野原で目を凝らして観た風景を探してみました。

 池主が「この歌の元歌、知っているよね」って歌を詠えば、家持は「こんな歌だろ」って感じで元歌をもじって歌を返しています。このように二人の間では人麻呂歌集や山部赤人は教養です。ただし、人麻呂歌集から引用するのは恋の相聞歌です。奈良時代の貴族階級では人麻呂歌集の恋の相聞を知らないと女の子とHも出来なかったのかもしれません。もしそうですと男は必死で人麻呂歌集の歌を覚え、女の子の許へと歌を贈ります。
 なるほど、家持は万葉集を編纂した人物だから、人麻呂歌集は知っていて当然だと思われるかもしれません。では次に紹介する歌はどうでしょう。これは下級の役人が宴会で詠った歌と推定される歌です。ここでは、少し、人麻呂歌集のことをひねっています。

集歌3858 
原文 比来之 吾戀力 記集 功尓申者 五位乃冠
訓読 このころし吾(あ)が恋(こひ)力(つとめ)記(しる)し集め功(くう)に申(まを)さば五位の冠(かがふり)
私訳 近頃の私の恋の努力を記録して書に集めて、それを功績として申請したら、柿本人麻呂と同じように五位の大夫の冠の位です。

集歌3859 
原文 項者之 吾戀力 不給者 京兆尓 出而将訴
訓読 おほいなる吾(あ)が恋(こひ)力(つとめ)賜(たは)らずは京(みさと)兆(づかさ)に出(い)でに訴(そ)しらむ
私訳 人麻呂に匹敵するような大変な私の恋の努力に対して褒美を貴女から頂けないなら、奈良の都の役所にきっと出かけて行って訴えますよ。

 これはどこかでの宴会で、余興として和歌のお題を出され、それに答えた歌と思われます。そのお題とは「吾が戀の力」と「兆(司)」です。集歌3858の歌では査定考課で「功」から「司」を、集歌3859の歌では訴訟で「京兆(司)」を詠い、この全く関係がなさそうな二つのお題を用いて歌を詠ったのが奈良時代の歌人の技と思います。
 さて、先に「荷葉を開く歌」でも説明しましたが、奈良時代に和歌集と云えば人麻呂歌集と思うぐらいに有名なものだったと思われます。特に恋歌を詠う場合は、次に紹介しますが笠女郎が大伴家持に詠いかけたように、歌を詠う男女では人麻呂歌集は必須に知っていなければいけないような物だったようです。それで、集歌3858の歌で恋歌を集めて人麻呂歌集のように歌集を編めば柿本人麻呂と同じ五位の殿上人に成れると詠ったと思います。なお、さらっと柿本人麻呂は五位の殿上人と説明しましたが、これは柿本人麻呂研究者にはびっくりの話です。この集歌3858の歌への理解が正しいのなら、柿本人麻呂の正体が判明し、それは最終官位が従四位下だった柿本朝臣佐留となります。
 次に集歌3859の歌は集歌3858の歌に対する洒落です。「項」の字には「冠の後部」を示すとともに「おおいなり、おおきい」の意味がありますから、「五位の冠の人=人麿、その後ろに連なる」の意味と「おおいなり=大夫」の意味を同時に持たしていると思われます。ちなみに「京兆」は左京職や右京職の別名で京域の行政官を指します。この集歌3859の歌は素人には難しいものですが、当時の役人として日常的に漢語・漢文で仕事をする人々には身近な漢語を用いた大和歌の世界です。
 当時の貴族の男たちが女の子にHをさせてとお願いする時の、必須のものが和歌です。奈良の時代、携帯もありませんし、それに日常の言葉や会話を文章として表記する方法も発明されていませんからラブレターを書くと云う事も出来ません。出来る手段は家来に命じて家来に口説かせるか、相手に和歌を贈り口説くしか、手段はありませんでした。この風景は源氏物語で光源氏が見せる姿と同じですので、和歌は重要な会話手段です。
 そうした時、恋のお手本となる和歌集が奈良時代にはありました。それが、人麻呂歌集に載る恋の相聞です。この人麻呂歌集には初恋の段階から激しいHをするような関係まで、すべての段階の歌が含まれていますから、恋の参考書にはもってこいです。このためか、当時の貴族での教養になったようです。
 参考に笠女郎の本歌取りの歌とその本歌を紹介します。
笠女郎の歌
集歌593 
原文 君尓戀 痛毛為便無見 楢山之 小松之下尓 立嘆鴨
訓読 君に恋ひ甚(いた)も便(すべ)なみ平山(ならやま)の小松が下(した)に立ち嘆くかも
私訳 貴方に恋い慕ってもどうしようもありません。(人麻呂が詠う集歌2487の歌のように)平山に生える小松の下で立ち嘆くでしょう。
参考歌 人麻呂歌集より
集歌2487 
原文 平山 子松末 有廉叙波 我思妹 不相止看
訓読 奈良山し小松し末(うれ)しうれむそは我が思(も)ふ妹に逢はず看(み)む止(や)む
私訳 奈良山の小松の末(うれ=若芽)、その言葉のひびきではないが、うれむそは(どうしてまあ)、成長した貴女、そのような私が恋い慕う貴女に逢えないし、姿をながめることも出来なくなってしまった。

 笠女郎の歌
集歌603 
原文 念西 死為物尓 有麻世波 千遍曽吾者 死變益
訓読 念(おも)ふにし死にするものにあらませば千遍(ちたび)ぞ吾は死に返(かへ)らまし
私訳 (人麻呂に愛された隠れ妻が詠うように)閨で貴方に抱かれて死ぬような思いをすることがあるのならば、千遍でも私は死んで生き返りましょう。参考歌 人麻呂歌集より
集歌2390 
原文 戀為 死為物 有 我身千遍 死反
訓読 恋ひしせし死(し)ぬせしものしあらませば我が身し千遍(ちたび)死にかへらまし
私訳 貴方に抱かれる恋の行いをして、そのために死ぬのでしたら、私の体は千遍も死んで生き還りましょう。

 笠女郎の歌
集歌604 
原文 劔太刀 身尓取副常 夢見津 何如之恠曽毛 君尓相為
訓読 剣(つるぎ)太刀(たち)身(み)に取り副(そ)ふと夢(いめ)に見つ如何(いか)なる怪(け)そも君に相(あ)はむため
私訳 (人麻呂に抱かれた隠れ妻が詠うように)貴方が身につける剣や太刀を受け取って褥の横に置くことを夢に見ました。この夢はどうしたことでしょうか。貴方に会いたいためでしょうか。
参考歌 人麻呂歌集より
集歌2498 
原文 釼刀 諸刃利 足踏 死ゞ 公依
訓読 剣太刀(つるぎたち)諸刃(もろは)し利(と)きに足踏みて死なば死なむよ君し依(よ)りては
私訳 貴方が常に身に帯びる剣や太刀の諸刃の鋭い刃に足が触れる、そのように貴方の“もの”でこの身が貫かれ、恋の営みに死ぬのなら死にましょう。貴方のお側に寄り添ったためなら。

  和歌の進化の歴史や時代背景を想像して、漢文を眺め、和歌を鑑賞しますと、今まで解説されていた歌の鑑賞とは違った世界もありますし、別の漢文の解釈があります。それに一番重要なこととして、過去から現代に伝わった古典の原文を「校訂」と云う名で、原文自体を勝手に変更すると云う歴史への冒涜をしなくて済みます。
 今回のテーマの「万葉集なのに漢文ですか」の、おまけのおまけとして、人麻呂歌集に次の和歌がありますが、これを少しいじると推古天皇時代に大陸で流行していた呉声歌曲の内の子夜歌調の漢詩になります。子夜歌は遊郭の女性が伴奏無しで端唄として詠うものですから、声に出して詠う和歌とは距離感としては近いものがあります。

 集歌2240
原文 誰彼我莫問 九月露沾乍 君待吾
訓読 誰(たれ)彼(かれ)を吾に莫(な)問ひそ 九月の露に濡れつつ 君待つ吾そ
私訳 誰だろうあの人は、といって私を尋ねないで。九月の夜露に濡れながら、あの人を待っている私を。

 <人麻呂歌の集歌2240をいじったもの>
君待吾 誰彼我莫問 九月露沾乍
君待つ吾 誰れ彼れと我に問ふなかれ 九月の露に濡れいるを
<子夜歌:華山畿>
夜相思 風吹窗廉動 言是所歓來
夜に相思ひ 風は吹きて窓の廉を動かし 言う 是れ所歓の来たれるかと

 実にアハハ!の世界ですが、奈良時代の人々は、これらを承知して遊びます。その教養水準があったからか、遣唐使の人々は唐の宮廷で優れた教養人として歓待を受けました。

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