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紫式部と万葉集の享受

 私が管理するブログ「竹取翁と万葉集のお勉強」の資料庫に「源氏物語引歌 万葉集部」と云うものを載せています。この「源氏物語引歌」とは、平安時代に源氏物語が書かれた時から、その文章にどのような先行する和歌や漢文が引用されているのか、その引用はどのような意味を持つのかなど、読者たちは研究していました。その先行する作品からの引用の状況を「源氏物語引歌」と称し、引用されたであろう万葉集、古今和歌集、後撰和歌集、白氏文集、遊仙窟などの作品と源氏物語との対比を示し、それぞれの研究者は古典作品の造詣の深さを自慢することがありました。この中でも、私の趣味である万葉集に焦点を絞り、源氏物語に万葉集から引用されたとされる引歌の元歌を紹介するものです。
 この源氏物語に万葉集から引用されたとされる引歌の元歌に対して、江戸期末期の歌学者である萩原広道氏は「源氏物語引歌での万葉集歌は、一見、『万葉集』から直接に引用されているように見えるが、実際は『源氏物語』に載る万葉集歌は『万葉集』からの引用ではなく、全てが『古今和歌六帖』に収容された万葉集歌から引用されている」と指摘しています。従来、源氏物語の研究者や万葉集の読解研究者の一部に、全くに検証することなく萩原広道氏の古今和歌六帖に収容された万葉集歌からの引用説を信用し、それを自分たちの研究の根拠の一つとすることもありました。
 私の嫌な性格で、個人的に古今和歌六帖のデータベースを作成し、源氏物語引歌での万葉集歌と古今和歌六帖とを対比・照合すると、源氏物語が引歌する万葉集歌は万葉集から直接に引用したものであって、古今和歌六帖からではないことが判明しました。私が管理するブログの資料庫に納める「源氏物語引歌 万葉集部」は、その照合と確認の結果を示すものですし、同じように載せる「古今和歌六帖」も、その作業を他の人でも簡単にカウンターチェックすることが可能とするものです。弊ブログに載せる「源氏物語引歌 万葉集部」は、萩原広道氏の提案に対する反論・反証として古今和歌六帖に載らない万葉集歌が取られていることを示したうえで、萩原広道氏の源氏物語引歌研究が、道半ばでの先走りの結論と提案だったことを指摘しました。
 確かに、江戸期末期の歌学者である萩原広道氏が女性の紫式部が漢語と万葉仮名と言う漢字だけで表記された万葉集原文が読めるわけが無いとするのも、一面、無理はないかもしれません。平安時代の紫式部の時代までに読めていた万葉集の原文は鎌倉時代初頭までには読めないものとなり、それ以降、万葉集原文の読み解きが一つの課題でした。それでも、萩原広道氏の時代、万葉集の巻一・歌番号一の巻頭・天皇御製謌を始めとして、完全には読み解きがで来ていませんでした。現在は、原文表記に誤記説を取り入れ、原文を変更することで読解が可能となっています。逆に現代でも、万葉集を原文から読めているのかというと、ちょっと、怪しいのです。その深刻な状況を知っている立場からすれば、江戸期に儒教から教育を受けた人物ですと、女性の紫式部が漢語と万葉仮名と言う漢字だけで表記された万葉集の原文が読めるはずが無いと決めつけることに無理は無いと思いますし、そのように信じたかったと思います。
 研究者個人の特殊な感情なのかどうかは判りませんが、ネット検索をしますと萩原広道氏の論を検証することなく引用し、女性の紫式部に万葉集の原文が読めるはず無い、その主張を自己の論のベースに据えるお方がいます。その場合の予定推論として、平安時代中期までには万葉集は人々にとって既に読解が困難な歌集だったとすることが出来ます。従来のこのような学説を補強するには萩原広道氏の論は実に便利なものでした。ただ、私が管理するブログでも指摘しましたし、最新の『源氏物語引歌綜覧』からしますと江戸歌学者である萩原広道氏の論説は古典文学の素人が管理するブログ記事にも負けると云う程度のものでしかないことが示されています。つまり、その延長線で「平安時代中期までには万葉集は読解が困難な歌集であった」と云うこともまた怪しい与太話なのです。
 さて、源氏物語引歌研究に従いますと、万葉集の巻二からは三首が取られ、二首が柿本朝臣人麻呂のもので、残りのもう一首が大伴宿祢安麻呂の歌です。これは大伴安麻呂と巨勢郎女との問答歌二首一組の中の一首ですから、当然、巨勢郎女が詠う集歌102の歌は引歌として示す歌の世界での射程圏内ではないでしょうか。

源氏物語 第四七帖 総角
引歌文 何か、これは世の人の言ふめる恐ろしき神ぞ、憑きたてまつりたらむと、
万葉集巻二 集歌101 大伴安麻呂
原文 玉葛 實不成樹尓波 千磐破 神曽著常云 不成樹別尓
読下 たまかつらみならぬきにはちはやふるかみそつくといふならぬきことに
私訓 玉(たま)葛(かづら)実(み)成(な)らぬ木にはちはやぶる神ぞ着(つ)くといふならぬ樹ごとに
私訳 美しい藤蔓の花の実の成らない木には恐ろしい神が取り付いていると言いますよ。実の成らない木にはどれも。それと同じように、貴女を抱きたいと云う私の思いを成就させないと貴女に恐ろしい神が取り付きますよ。

<参考歌>
巨勢郎女報贈謌一首 即近江朝大納言巨勢人卿之女也
標訓 巨勢郎女の報(こた)へ贈りたる歌一首
追訓 即ち近江朝の大納言巨勢(こせの)人(ひとの)卿(まへつきみ)の女(むすめ)なり
集歌102
原文 玉葛 花耳開而 不成有者 誰戀尓有目 吾孤悲念乎
訓読 玉(たま)葛(かづら)花のみ咲きて成らざるは誰が恋にあらめ吾(わ)が恋ひ念(も)ふを
私訳 美しい藤蔓の花のような言葉の花だけがたくさんに咲くだけで、実際に恋の実が実らなかったのは誰の恋心でしょうか。私は貴方の私への恋心を感じていましたが。

 さらに近々の源氏物語引歌研究では次の歌も万葉集からの引歌だとします。

源氏物語 四帖 夕顔
引歌文 まだ知らぬことなる御旅寝に、息長川と契り給ふことよりほかのことなし。
万葉集巻二十 集歌4458 馬史國人
原文 尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母
読下 にほとりのおきなかかははたえぬともきみにかたらせことつきめやも
私訓 にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ辞(こと)尽きめやも
私訳 にほ鳥の息継ぎが長い、その言葉のような、息長川は水が絶えたとしても、貴方にお話しする物語は尽きません。

 この集歌4458の歌は次のような標題を持つ三首一組の中からの一首ですから、その前後を捨て、無名人に近い馬史國人の歌だけが源氏物語に引歌されたとは思えません。やはり、引歌の精神としては万葉集巻二十の中での一連の作品として扱われたのではないでしょうか。つまり、三首一組の歌が示す世界を源氏物語は引用していると思われます。

<参考歌>
標題 天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉廿四日戊申 太上天皇太皇太后幸行於河内離宮 經信以壬子傳幸於難波宮也 三月七日於河内國伎人郷馬國人之家宴謌三首
標訓 天平勝寶八歳丙申、二月朔乙酉にして廿四日戊申に、太上天皇と太皇太后と、河内(かふち)の離宮(とつみや)に幸行(いでま)して、信(ふたよ)を經(へ)、壬子を以ちて難波の宮に傳幸(でんこう)したまへり。三月七日に、河内國の伎人(くれひとの)郷(さと)の馬國人の家にして宴(うたげ)せる謌三首
集歌4457
原文 須美乃江能 波麻末都我根乃 之多波倍弖 和我見流乎努能 久佐奈加利曽祢
訓読 住吉の浜松が根の下(した)生(は)へて吾が見る小野の草な刈りそね
私訳 住吉の浜松の根の下に生える、私が眺める小野の草を刈らないで下さい。
左注 右一首、兵部少輔大伴宿祢家持
注訓 右の一首は、兵部少輔大伴宿祢家持

集歌4458
原文 尓保杼里乃 於吉奈我河波半 多延奴等母 伎美尓可多良武 己等都奇米也母
訓読 にほ鳥の息長川(おきながかは)は絶えぬとも君に語らむ辞(こと)尽きめやも
私訳 にほ鳥の息が長い、その言葉のような、息長川は水が絶えたとしても、貴方にお話しする物語は尽きません。
左注 右一首、主人散位寮散位馬史國人
注訓 右の一首は、主人(あるじ)散位寮(さんゐのつかさ)の散位馬(うまの)史(ふひと)國人(くにひと)

集歌4459
原文 蘆苅尓 保里江許具奈流 可治能於等波 於保美也比等能 未奈伎久麻泥尓
訓読 葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに
私訳 葦を刈りに堀江を漕ぐのだろう楫の音は、大宮人の皆が聞こえるまでに響きます。
左注 右一首、式部少丞大伴宿祢池主讀之。即云、兵部大丞大原真人今城、先日他所讀謌者也
注訓 右の一首は、式部少丞大伴宿祢池主のこれを讀める。即ち云はく「兵部大丞大原真人今城の、先日(さきつひ)に他所(あたしところ)にして讀みし謌なり」と。

 ここで紹介しました大伴安麻呂が詠う集歌101の歌も馬史國人が詠う集歌4458の歌も古今和歌六帖に載る歌ではありません。概ね、万葉集に単独に載る歌なのです。
 これを色眼鏡無しで眺めますと、紫式部は万葉集巻二に載る二首一組の歌を知っているし、同じように巻二十に載る三首一組の歌も知っています。他にも引歌先として万葉集の巻三から一首、巻四から四首、巻五から二首、巻七から一首、巻八から六首、巻十から二首、巻十一から七首、巻十二から六首を採っており、この引歌の万葉集の中の分布を考えると東歌の巻十四、遣新羅使の巻十五、主に長歌の巻十六などの源氏物語の世界感とは調和しないような特殊な巻を除きますと、紫式部は万葉集のおおよその巻の歌をすべて知っていたと推定して良いのではないでしょうか。
 特筆すべき点として、紫式部は万葉集でも特に難解な巻とされる巻五を十分に理解していたと思われるのです。次の歌は「貪窮問答謌一首并短謌」として有名な山上憶良の作品を引歌しています。

源氏物語 第六帖 末摘花
引歌文 故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけりとて、飛び立ちぬべくふるふもあり。
万葉集巻五 集歌893 山上憶良
原文 世間乎 宇之等夜佐之等 於母倍杼 飛立可祢都 鳥尓之安良祢婆
読下 よのなかをうしとやさしとおもへともとひたちかねつとりにしあらねば
私訓 世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
私訳 この世の中を辛いことや気恥ずかしいことばかりと思っていても、この世から飛び去ることが出来ない。私はまだ死者の魂と云う千鳥のような鳥ではないので。

 源氏物語での「飛び立ちぬべくふるふもあり」と云う文節が引歌を利用していると推定していますから、歌の世界観からしますと「ふるふ」は「寒さなどに震える」と云う頓珍漢な解釈ではなく、紫式部が示したかったのは「死んでしまいたいとか、逃げ出してしまいたいとかではなく、貧しくてもその中で裁量を発揮する」の方の意味でしょう。つまり、貪窮問答謌の長短歌を完全に理解していたと思われるのです。逆に見ますと、今日の研究レベルからしますと萩原広道氏やその支持者は万葉集へも、また、源氏物語へもその理解が十分ではなかったことになります。つまり、字面しか読めなかったのです。それでは、紫式部の引歌について理解が進みません。
 当然、物語での引歌技法も和歌での本歌取技法も、その作品の作者/作歌者とその鑑賞者が引用先の古典を十分に知っていることが前提です。それでもって初めて成り立つ技法です。従いまして、源氏物語が書かれた時代、作者の紫式部、その熱心な読者である藤原道長や彰子、対してライバルであった清少納言たちもまた万葉集は十分に読解が出来、知るべき教養だったと考えるべきとなります。藤原道長が万葉集への訓点付け研究をしたとの記録がありますから、読めなかったと判断するのではなく、藤原道長の訓点付けとは、その時代としての解釈や道長自身の解釈を行っていたとするべきではないでしょうか。
 源氏物語が世に出たのが寛弘五年(1008)頃とされています。また、万葉集との重複を避けて編まれた古今和歌集の奉呈は延喜5年(905)です。「万葉集との重複を避けよ」との要請は、裏を返せば万葉集が完全に読めたと云うことですから、延喜五年(905)時点では万葉集は自在に読み解ける詩歌集です。同じように万葉集との重複を避けたとされる後撰和歌集の編纂開始が天暦五年(951)ですし、『石山寺縁起絵巻』によると同時期となる広幡御息所の求めによる源順の万葉集の「やわらげ」の作業は康保年間(964-968)のこととされています。古今和歌集と後撰和歌集には4500首余りの万葉集との重複が数首以内でおおむね無いことから、この時代の人々は十分に漢語と万葉仮名と言う漢字だけで表記された万葉集原文を理解していたことになりますし、源氏物語が世に出る前に、時代の人々が万葉集をある時を境に一斉に読めなくなったとは考えられません。源氏物語が世に出たのが寛弘五年(1008)頃でも源氏物語中での引歌態度から推定して、まだまだ、人々は教養として二十巻本万葉集を読み解いています。
 対して、伝承の梨壺の五人衆の出来事は天暦五年(951)の村上天皇の詔にあるとされますから、少し、不思議な感があります。ただ、今日では、康保年間(964-968)の村上天皇の万葉集の「やわらげ」の詔とは、天皇の更衣であった源計子(広幡御息所)が、当時としての「万葉集の現代語訳本(平安時代中期 宮中女房語への翻訳)」を所望したことへのものではないかと推測されています。およそ、現代に置き換えますと、「現代語訳本の万葉集が出版されること」とは、「現代まで万葉集が読解出来ていなかった証拠である」と、論じることと同一となります。このような指摘ですと、学問的には全員がポカンと呆れるような暴論です。
 与太話ですが、紫式部が生きた時代、万葉集は人々の教養たる古典でした。つまり、読めた詩歌集です。ところが、最古とされる元暦校本(元暦元年;1184)の時代までには万葉集は読めない詩歌集になってしまったようです。この元暦年間は源平合戦の時代であり、鎌倉時代の入り口でもあります。つまり、古今和歌集や土左日記をも、原文の言葉の響きが気に食わなければ、原文の言葉でも変えることを厭わない藤原俊成・定家親子たちの時代です。およそ、藤原俊成・定家親子たちの時代までに万葉集は読めないものになったようですし、同時にまた六百番歌合に論評するように万葉の言葉の響きは恐ろしいとして、藤原俊成は万葉集歌を評価しなかった人でもあります。
 最後に、先に紹介しました、源氏物語引歌研究では源氏物語 第六帖 末摘花での次の文「飛び立ちぬべくふるふもあり」には、山上憶良が詠う「貪窮問答謌一首并短謌」の短歌が引用されているとしますが、近々の標準的な源氏物語現代語訳では少し様子が違うようです。そこで、当該部分の現代語訳文を紹介します。解釈は貪窮問答謌を下に複数の女房たちの性格を対比・並列的に述べたものとしています。なお、古語「ふるふ」の意味には「震るふ」だけでなく「振るふ」もあるのです。一方的に「震るふ」とはならないのです。

<参考;源氏物語 末摘花より抜粋>
隅の間ばかりにぞ、いと寒げなる女ばら、白き衣のいひしらず煤けたるに、きたなげなる褶引き結ひつけたる腰つき、かたくなしげなり。さすがに櫛おし垂れて挿したる額つき、内教坊、内侍所のほどに、かかる者どもあるはやと、をかし。かけても、人のあたりに近うふるまふ者とも知りたまはざりけり。
あはれ、さも寒き年かな。命長ければ、かかる世にもあふものなりけりとて、うち泣くもあり。
故宮おはしましし世を、などてからしと思ひけむ。かく頼みなくても過ぐるものなりけりとて、飛び立ちぬべくふるふもあり。
さまざまに人悪ろきことどもを、愁へあへるを聞きたまふも、かたはらいたければ、たちのきて、ただ今おはするやうにて、うちたたきたまふ。
そそやなど言ひて、火とり直し、格子放ちて入れたてまつる。

<現代語訳文>
隅の間の方に、とても寒そうな女房が、白い着物で譬えようもなく煤けた上に、汚らしい褶を纏っている腰つき、いかにも不体裁である。それでも、櫛を前下がりに挿している額つきは、内教坊、内侍所辺りに、このような連中がいるのだからと、気恥ずかしい。だからと云って、宮家で高貴な人のお側にお仕えしている者とは思いもよらないだろう。
「ああ、何とも寒い年ですね。長生きすると、このような辛い目にも遭うのですね」と、云って泣く者もいる。
「故宮様が生きていらしたころを、どうして辛いと思ったのでしょう。このように後見をする人も無い状態でも世を暮して行けるものなのですね」と言って、だからと云ってこの世から飛び去ることも出来ないのだからと出来る限りのことをする者もいる。
あれこれと体裁の悪いことを、女房たちが愚痴こぼし合っているのをお聞きになるのも、気が咎めるので、その場から離れて、ちょうど今お越しになったようにして、格子をお叩きになされた。
「それ、それ」などと言って燈火の向きを変え、格子を外してお入れ申し上げる。

 引歌技法は引用した元歌の世界をも踏まえることで、文章が持つ世界感をさらに膨らませる効果を狙ったものとしますと、引歌の引用先の元歌の世界感と源氏物語の現代語訳の世界感が、全くに機能しないとすると、一体、それは何なのでしょうか。現代語訳者が引歌じゃないと判断するなら、平安時代から昭和時代までの源氏物語の解釈が間違っていたのでしょうか。紫式部たち女房群、それに対する藤原道長以下の貴族群たちは、万葉集、古今和歌集、後撰和歌集、白氏文集、遊仙窟などの作品は暗記すべき素養としていますから、それを最低基準で源氏物語を眺めるとすると、相当に手ごわい作品と思います。最新の『源氏物語引歌綜覧』は、ちょっと分厚い便覧参考書ですから、なかなかです。
 おまけで、源氏物語は恋愛小説のジャンルのものですが、「源氏物語引歌 万葉集部」を作成する過程で気が付いたことに、作者の紫式部は万葉集からの引歌の数からすると万葉集に載る柿本人麻呂の相聞恋歌が大好物だったようです。柿本人麻呂は隠れ妻と称される正妻にはなれない女性を十歳ぐらいの少女時代から好みの女性へと教育して生涯の恋人としたと思われますし、隠れ妻の方が先に死亡します。これは、ちょうど、光源氏と紫の上(若紫)との関係性と似たものがあります。女性との関係性は柿本人麻呂に、身分や立場は河原左大臣源融にモチーフを得て、物語の構想を練ったかもしれません。もし、お暇でしたら、柿本人麻呂歌集などを眺めてみたらどうでしょうか。

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