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奈良律令体制 肩書から読む万葉歌

 前に、奈良時代の律令官位官服制度について話題としました。ここではそこから少し、視点を変えて、律令時代にその官位官服制度が運用されていた時代に編まれた万葉集から敬称について、歌、人物、敬称の関係を取り上げてみたいと思います。ここで、奈良時代中期から平安時代初頭ごろに編まれたと考えられている万葉集と言う詩歌集は、現代基準では勅撰歌集の分類とはしませんが、平安時代初頭では勅撰和歌集と同じ扱いのもので上級貴族は知るべき教養でした。つまり、平安時代初頭にあっては、万葉集に載る人物の身分、官位、敬称などは律令制度での関係性・規則性に対して違和感がないものです。そこから、万葉集に示す人物の身分、官位、敬称などの関係性・規則性には律令規則に従っていると仮定して、以下のものを説明します。
 ここで、谷川健一著「古代学への招待」(日経ビジネス文庫)と云う本があり、そこで次のような文章に出会いました。
 
倭王は厩戸王であり、女帝は豊御食炊屋姫である。常識としては、倭王と女帝が二人とも帝王として並び立つということはあり得ない。
 
 恥ずかしいことに、この文章に出会うまで日本の古代史での統治行為に関して「倭王と女帝が二人とも帝王として並び立つということはあり得ない」と云うことが、一定の認識であるとは知りませんでした。そこが教育を受けていない者の浅はかさです。
 この文章に出会うまで、個人としては日本書紀や古事記の記事から「日本の伝統は女性の巫女と男性と大王とが組となり統治を行っていた」と思いこんでいました。例えば、日本書紀の仲哀天皇紀に載る北九州の洞海湾一帯を治めていた菟夫羅媛と大倉主との組み合わせや福岡の柳川市一帯を治めていた田油津媛と夏羽の組み合わせがあり、また、有名な魏志倭人伝の卑弥呼についても「有男弟佐治國」との記述がありますから卑弥呼とその弟とがペアで統治を行っていたようです。さらに隋書には「倭王以天爲兄以日爲弟 天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟」との記述がありますから、推古天皇時代の統治もまた、その姿は卑弥呼の「有男弟佐治國」と同じです。つまり、日本は祀事(まつりこと)と政事(まつりこと)とを区分し、それぞれに司祀者の巫女と司政者の大王がいたと考えられます。個人として日本書紀や古事記の記事、魏志倭人伝、それに隋書倭国伝などの記述から、そのように思い込んでいました。
 ところが、谷川健一氏が指摘するように、私が思い込んでいた「日本では祀事と政事とを区分し、それぞれに司祀者の巫女と司政者の大王がいた」と云うものは、日本の文学界や古代史学会では常識ではなかったのです。実に恥ずかしい思い込みでした。
 今回は申し訳ありませんが、このような古代史学会のような専門分野での常識を持たない立場、つまり、歴史への非常識の立場から万葉集を鑑賞します。つまり、「日本では祀事と政事とを区分し、それぞれに司祀者の巫女と司政者の大王がいた」と云う理解で鑑賞を行います。いい年をしても意固地です。
 さて、『古事記誕生 「日本像」の源流を探る』(工藤隆、中公新書)と云う本に古事記の信憑性論議に関して次のような記述があります。
 
当時の書物の性格上、現代のような“一般読者”は存在していないので、原則として一般読者に向けた序というものは存在しない。読者は、まず第一に天皇であり、副次的には国家中枢の官僚・貴族たちである。
 
 およそ、この文章が現代までに伝わる古典書物の性格を示すものと思われます。古代での書物とは「書物が製作された、その時代の天皇に読んでいただく」。これが基本なのでしょう。現代の文学者や大学教授がどんなに偉い人たちであったとしても、その人たちを読者として書かれた書物ではないことは明らかです。そして、万葉集が編纂された時代は、律令制を確立し、それを制度として運用を開始する、又は運用をしていた時代です。公的な場での行動には律令制度の縛りがあります。作歌活動も然りですし、編纂行為もまた読者が天皇であると云うことを考えれば律令制度の縛りから抜け出すことは出来ないでしょう。
 現代もそうですが、身分を示す敬称は政治において重要なテーマです。律令制度でも然りです。公式な死亡報告書の作成に置いては身分により「薨」、「卒」、「死」との用字区別の規定がありました。同様に天皇の妃についてもその運用の実態は別として「后」、「妃」、「夫人」、「嬪」などの敬称区分の規定がありました。
 これと同じような視線で万葉集を眺めてみますと、集歌からつぎのような敬称に関するデータが得られます。
 
万葉集での各天皇及び重要な皇子の呼称
人物 時期 表記 歌番号
舒明天皇 生前 八隅知之 我大王乃 朝庭 集歌3
     生前 遠神 吾大王乃 行幸能 集歌5
中大兄  生前 中大兄 (特殊例 標での表記) 集歌13
天智天皇 死没 大王乃 御寿者長久 集歌147
     死没 八隅知之 吾期大王 大御船 集歌152
     死没 八隅知之 和期大王 恐也 集歌155
天武天皇 死没 八隅知之 吾大王 暮去者 集歌159
     死没 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 集歌162
     死没 高照 日之御子 集歌162
     死没 神下 座奉之 高照 日之皇子波 集歌167
     死没 神随 太布座而 天皇之 敷座國等 集歌167
持統天皇 生前 八隅知之 吾大王之 所聞食 集歌36
     生前 安見知之 吾大王 神長柄 神佐備世須登 集歌38
     生前 吾大王 高照 日之皇子 集歌45
     生前 八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 集歌50
     生前 八隅知之 和期大王 高照 日之皇子 集歌52
     生前 皇者 神二四座者 集歌235
     生前 八隅知之 吾大王 高輝 日之皇子 集歌261
元明天皇 生前 天皇乃 御命畏美 集歌79
     生前 吾大王 物莫御念 集歌77
     生前 八隅知之 和期大皇 高照 日之皇子之 集歌3234
 
重要な皇子の尊称
草壁日並皇子尊  死没 吾王 皇子之命 集歌167
         死没 高光 我日皇子 集歌171
         死没 高光 吾日皇子乃 集歌173
高市後日並皇子尊 死没 八隅知之 吾大王乃 所聞見為 集歌199
         死没 吾大王 皇子之御門乎 集歌199
         死没 吾大王乃 萬代跡 集歌199
         死没 我王者 高日所知奴 集歌202
忍壁皇子     生前 王 神座者 集歌235別
弓削皇子     死没 安見知之 吾王 高光 日之皇子 集歌204
         生前 王者 神西座者 集歌205
長皇子      生前 八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 集歌239
         生前 吾於富吉美可聞 集歌239
         生前 我大王者 集歌240
         生前 皇者 神尓之坐者 集歌241
石田王      死没 吾大王者 隠久乃 集歌420
         死没 君之御門乎 集歌3324
         死没 吾思 皇子命者 集歌3324
         死没 皇可聞 集歌3325
長屋王      生前 安見知之 吾王乃 敷座在 集歌329
         死没 大皇之 命恐 大荒城乃 集歌441
安積皇子     死没 吾王 御子乃命 集歌475
         死没 吾王 天所知牟登 集歌476
         死没 挂巻毛 文尓恐之 吾王 皇子之命 集歌478
         死没 皇子乃御門乃 集歌478
         死没 皇子之命乃 集歌479
志貴親王     死没 天皇之 神之御子之 集歌230
 
注意として、飛鳥・奈良時代では、「天皇」は「すめらぎ」、「皇」は「すめら」、「皇子」は「みこ」、「大王」は「おほきみ」、「王」は「きみ」と訓じるのが本来です。現代風に特定の思想を下に意図して「天皇」と「大王」とを同じ「おほきみ」の訓じに集約するのは間違いです。
 
 このリストからすると、天皇の地位にある人物には「八隅知之 吾大王」と云う敬称が与えられています。身分の例外となるのが、持統天皇の時代の太政大臣であった高市皇子への「八隅知之 吾大王乃」と文武天皇の時代に知太政大臣級の格式と一品の官位を持つ長皇子への「八隅知之 吾大王」です。国史からすると二人は天皇ではありません。しかしながら、もし、「祀事と政事とを区分し、それぞれに司祀者と司政者がいた」という考え方が有り得るのですと、持統天皇と高市大王、持統天皇・元明天皇と長大王との組み合わせが想像されます。藤原京時代の太政大臣、平城京時代の知太政大臣が政治での最高責任者であるとし、この想像が成り立つとすれば、作歌活動において政治の最高責任者に大王の敬称を与えても不思議ではないことになります。
 次に「八隅知之」と「安見知之」の言葉に注目しますと、持統天皇を讃える歌の中にこの両方の表現を見つけることが出来ます。一方、「安見知之」の言葉だけなのが弓削皇子と長屋王です。現在、過去の風習で「長屋王」と表記しますが、考古学の遺跡発掘成果などからすると当人が生きていた奈良時代では「長屋親王」または「長屋皇子」が正しい敬称です。正しい敬称に戻した時、続日本紀が編纂された天平年間以降の政治状況を勘案すると、この長屋皇子は皇太子または大王格の人物ではなかったかとの指摘があります。つまり、「安見知之 吾王」の表現には皇太子や大王格を意味する可能性が否定できないのです。それを示唆するのが、もう一つの表現、「高光 吾日皇子」です。天皇には、おおむね、「高照」の表現が使われますが、この「高光」の表現は、草壁日並皇子尊、弓削皇子、長皇子の三人に使われています。この三人の内、草壁皇子は皇太子ですし、長皇子は一品知太政大臣です。類推しますと、弓削皇子は皇太子級の人物だった可能性が示唆されます。このように身分により、御威光の程度が違うと云うのも、また、身分制度と敬称の管理が十分に行われていた証でもあるのでしょう。従いまして、身分推定において、それほどに誤差があるものではないと考えます。
 これら敬称を示す語句に注目すると、石田王の敬称表現に注目が集まります。万葉集の歌では政治中枢を執る人物に匹敵する「吾大王者」や天皇に準ずるような「皇可聞」の表現が使われています。この石田王は歴史にあっては有名人ではありませんが、万葉集の歌から推定すると弓削皇子と紀皇女との間の御子と思われる人物です。つまり、親王と内親王との間の御子となり、その場合、石田王の高貴な血統に匹敵するのは、歴史上、草壁皇子と阿閉皇女との御子軽親王(後の文武天皇)、高市皇子と御名部皇女との御子長屋親王(クーデターで殺害)、その長屋親王と吉備内親王との御子膳部王(クーデターで殺害)ぐらいです。ただし、歴史では日本書紀や続日本紀に記事が載らないため、石田王は歴史の闇の中の人物です。
 なお、長屋親王は二十一歳の時に初受位で正四位上に、その御子膳部親王は二十一歳の時に初受位で従四位下の官位を授けられており、ほぼ、二人ともに皇太子の扱いです。血統の高貴において同等としますと、石田王は長屋親王や膳部親王と同じように二十一歳の時、従四位下の官位を授けられた可能性があります。その場合、皇太子、または、皇太子候補です。参考に、文武天皇として即位したことになっている軽親王は歴史において叙位の記録がありませんし、万葉集にも記録がありません。つまり、文武天皇は有名ですが記録に残らない不明な人物です。万葉集的には柿本人麻呂は文武天皇と同時代人である持統太上天皇の紀伊御幸の歌などを残していますから、文武天皇が続日本紀に記述されるように即位したのであれば、なんらかの歌を残しても良いはずですが、それはありません。反って、柿本人麻呂は別な同時代人である長皇子や忍壁皇子の方の歌を残しています。
 こうした時、飛鳥藤原京から平城京時代に役人が高貴な人物について挽歌や寿歌を詠う場合、その高貴な人物の敬称については何らかの規定があったと考えますと、示しました事例から或る程度の類推の展開が可能と考えます。
 類推の展開が可能ですと、今までの説明から次のような系譜が想像できると考えますが、一方で、万葉集からは軽親王の姿は見えて来ません。
 
1 万葉集から見た皇太子の系譜
草壁皇子-高市皇子-石田王-安積皇子(暗殺)
2 万葉集から見た太政大臣の系譜
高市皇子-弓削皇子-長皇子-長屋王(クーデターで殺害)
 
 この皇子たちの内、人麻呂が関係するのは草壁皇子、高市皇子、弓削皇子、石田王、長皇子です。そして、大伴旅人が関係すると思われるのが長屋王であり、大伴家持が安積皇子と関係します。なお、高市皇子の敬称「吾大王 皇子之御門乎」は大王(律令では太政大臣)と皇太子の中間のようなものですから、非常に微妙な敬称です。
 当然、類推からのものは、まったく、日本書紀や続日本紀の記事とは一致しません。以前、天文や暦日からの歴史検討成果からすると、持統天皇紀や続日本紀は史実から記事原稿を作ったのではなく、最初に誰かによる設定された歴史の予定記事があり、それを為政者にとって好ましい順に並べ、そこに暦日を割り当てて編纂されている可能性が指摘されていますし、日食や天体食の記事を研究する古代の天文・暦の研究家はそのように理解しています。おおむね、日食記事の信頼性問題からすると現在の続日本紀は聖武天皇や桓武天皇に都合の良いものですし、それを示唆するように日本後紀には桓武天皇がそのような恣意的な編纂を実行させたとの記述があります。従いまして、万葉集の歌々に残る敬称から得られる身分が正史の記事と一致しないから、万葉集の方に信頼性がないとは云えない可能性があるのです。場合により、多くの人には不都合ですが、万葉集が示すものの方が正しいと云う可能性が残るのです。
 ここでの提議を面白いと思われるか、それがどうしたと思われるかは、お任せします。また、どうして、ここでの話題が今まで歴史談議に出て来なかったのかとの疑問を持たれたのなら、その答えは簡単です。標準的な万葉集の歌の鑑賞は、原文の万葉集歌を漢字平仮名交じりの訓読み万葉集に翻訳し、その時、「大王」、「皇者」、「皇者」、「大皇」などは、すべて「大君(おほきみ)」の表現に統一します。そのため、普段に使う資料からはここで示したそれぞれの表記の相違が見えませんし、相違があること自体を知らないのです。指摘するのも恥ずかしいのですが、現在、市販される万葉集の歌の鑑賞とは、その程度のものなのです。そのため、歴史から見た時に歌の解釈に違和感を持たれたとしたら、その原因はこの歴史解釈に由来します。
 敬称から地位を規定できるとの観点から、次に紹介します歌の解釈のように巻十三に無名の歌として載る挽歌集歌3324の歌の主人公を推定することが集歌420から集歌425までの歌を通じて可能となります。なお、高市皇子は「百濟之原」で、草壁皇子は「真弓乃岡」で葬送の儀礼が行なわれていますから、集歌3324の挽歌で詠う「石村乎見乍 神葬」とは場所が違います。そのため、類推で集歌423の挽歌との関係が見出されます。
 
同石田王卒之時、山前王哀傷作謌一首
標訓 同じ石田王の卒(みまか)りし時に、山前王の哀傷(かなし)びて作れる歌一首
集歌423
原文 角障經 石村之道乎 朝不離 將帰人乃 念乍 通計萬石波 霍公鳥 鳴五月者 菖蒲 花橘乎 玉尓貫(一云、貫交) 蘰尓將為登 九月能 四具礼能時者 黄葉乎 析挿頭跡 延葛乃 弥遠永(一云、田葛根乃 弥遠永尓) 萬世尓 不絶等念而(一云、大舟之 念馮而) 將通 君乎婆明日従(一云、君乎従明日香) 外尓可聞見牟
訓読 つのさはふ 磐余(いはれ)し道を 朝さらず 帰(き)けむ人の 思ひつつ 通ひけましは ほととぎす 鳴く五月(さつき)には 菖蒲(あやめ)草(ぐさ) 花橘を 玉に貫(ぬ)き(一(あるは)は云はく、貫(ぬ)き交(か)へ) かづらにせむと 九月(ながつき)の 時雨(しぐれ)の時は 黄葉(もみぢ)を 析みかざさむと 延ふ葛(ふぢ)の いや遠永(とほなが)く(一は云はく、田(た)葛(くず)し根の いや遠長(とほなが)に) 万世(よろづよ)に 絶えじと思ひて(一は云はく、大船し 思ひたのみて) 通ひけむ 君をば明日ゆ(一は云はく、君を明日香より) 外にかも見む
私訳 石のごつごつした磐余の道を朝に必ず帰って行った貴方が、想いながらあの人の許に通ったであろうことは、霍公鳥が鳴く五月には菖蒲の花や橘の花を美しく紐に貫きあの人の鬘にしようと、九月の時雨の時には黄葉を切り取ってあの人にさしかざそうと。野を延びる藤蔓のように、いっそう久方に長く万世に絶えることがないようにと想って通われた。そんな貴方を明日からは他の世の人として見る。
 
或本反歌二首
標訓 或る本の反歌二首
集歌424
原文 隠口乃 泊瀬越女我 手二纏在 玉者乱而 有不言八方
訓読 隠口(こもくり)の泊瀬(はつせ)娘子(をとめ)が手に纏(ま)ける玉は乱れてありと言はずやも
私訳 人の隠れると云う隠口の泊瀬の娘女の手に捲いている美しい玉が紐の緒が切れて散らばっていると言うのでしょうか。
 
集歌425
原文 河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶
訓読 河風し寒き長谷(はせ)を嘆きつつ君し歩(ある)くに似る人も逢へや
私訳 河風の寒い泊瀬で嘆げいていると、貴方の歩き方に似た人に逢へますか。
右二首者、或云紀皇女薨後、山前代石田王作之也。
注訓 右の二首は、或は云はく「紀皇女の薨(みまか)りましし後に、山前、石田王に代りて作れり」といへり。
 
挽歌
集歌3324
原文 挂纒毛 文恐 藤原 王都志弥美尓 人下 満雖有 君下 大座常 徃向 羊緒長 仕来 君之御門乎 如天 仰而見乍 雖畏 思憑而 何時可聞 日足座而 十五月之 多田波思家武登 吾思 皇子命者 春避者 殖槻於之 遠人 待之下道湯 登之而 國見所遊 九月之 四具礼之秋者 大殿之 砌志美弥尓 露負而 靡芽子乎 珠多次 懸而所偲 三雪零 冬朝者 刺楊 根張梓矣 御手二 所取賜而 所遊 我王矣 烟立 春日暮 喚犬追馬鏡 雖見不飽者 万歳 如是霜欲得常 大船之 憑有時尓 涙言 目鴨迷 大殿矣 振放見者 白細布 餝奉而 内日刺 宮舎人方 (一云、 者) 雪穂 麻衣服者 夢鴨 現前鴨跡 雲入夜之 迷間 朝裳吉 城於道従 角障經 石村乎見乍 神葬 々奉者 徃道之 田付叨不知 雖思 印手無見 雖歎 奥香乎無見 御袖 徃觸之松矣 言不問 木雖在 荒玉之 立月毎 天原 振放見管 珠手次 懸而思名 雖恐有
訓読 かけまくも あやに恐(かしこ)し 藤原し 王都(みやこ)しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 大(おほひ)に坐(いま)せど 行き向ふ 遥かし緒長く 仕(つか)へ来(こ)し 君し御門(みかど)を 天つごと 仰ぎて見つつ 畏(かしこ)けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月し 満(たたは)しけむと 吾が思(も)へる 皇子し命(みこと)は 春されば 植(うゑ)槻(つき)が上し 遠つ人 松し下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月(ながつき)し 時雨(しぐれ)し秋は 大殿し 砌(みぎり)しみみに 露負(お)ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けに偲(しの)はし み雪降る 冬の朝(あした)は 刺楊(さしやなぎ) 根張り梓を 大御手(おほみて)に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が王(おほきみ)を 烟(けぶり)立つ 春し日暮らし 真澄鏡(まそかがみ) 見れど飽かねば 万歳(よろづよ)に かくしもがもと 大船し 頼める時に 泣く吾(わ)れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うち日さす 宮し舎人(とねり)も (一云 はく、は) 栲(たへ)の穂(ほ)の 麻衣(あさぎぬ)着れば 夢かも 現(うつつ)かもと 曇り夜の 迷(まと)へる間(ほと)に 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の道ゆ 角(つの)さはふ 磐余(いはれ)を見つつ 神葬(かみはふ)り 葬(はふ)り奉(まつ)れば 行く道し たづきを知らに 思へども 験(しるし)を無(な)み 嘆けども 奥処(おくか)をなみ 大御袖(おほみそで) 行き触れし松を 言問(ことと)はぬ 木にはありとも あらたまし 立つ月ごとに 天(あま)つ原 振り放け見つつ 玉(たま)襷(たすき) 懸けて偲(しの)はな 畏(かしこ)くあれども
私訳 言葉に表すのもとても恐れ多い藤原の宮は王都として多くの人々で満ちていて、貴い御方はたくさんいらっしゃるが、去り来る年月を長くお仕えして来た、貴い貴方の宮殿を天空を見るように仰ぎ見ながら、恐れ多いことではありますが、貴い貴方を思いお頼り申し上げて、いつごろには成長なされて満月のように満ちたりなされるのでしょうと私が思っていた皇子の尊は、春になると植槻のほとりの、遠くに出かけた人を待つ松の下道を通って山にお登りになって国見をなされて、九月の時雨の秋には御殿の砌に一面に露が着いて、風に靡く萩の花を玉のたすきのように紐に貫いて飾って秋をお楽しみになり、美しい雪が降る冬の朝には挿し木の楊の根が張るように弦を張った梓弓を御手にお持ちになられて的当てを為された我々の王を、民のかまどに煙が立ち、春霞の春の一日を穏やかに過ごし、願うものを見せると云う真澄鏡を見ていても飽きることがないと、万代にまでこのようにあるでしょうと、大船のように頼もしく思っていた時に、泣いている私。その私の目も間違ったのでしょうか、御殿を振り返って見ると、葬送の白栲に飾り付けられて、日の射し込む御殿に仕える舎人も栲の立派な麻衣を着ているので、夢でしょうか、現実でしょうかと、曇った夜に道を迷うように戸惑っている間に、麻の裳が良い城上の道を通って、でこぼこ道の磐余の里を横に見ながら、貴い貴方を神として葬送を行い申し上げると、今後の生き方を知らないので、貴方を思ってみてもどうしようもなく、それを嘆いてみても、御姿はない。貴方の立派な御袖が行き触れた松を名残として、言葉を語らぬ木ではあるが、あら魂の月が代わるたびに、貴方が登られた天の原を仰ぎ見上げて、玉のたすきを懸けて偲びましょう。恐れ多くはあるが。
 
反歌
集歌3325
原文 角障經 石村山丹 白栲 懸有雲者 皇可聞
訓読 つのさはふ磐余(いはれ)し山に白栲し懸(かか)れる雲は皇(おほきみ)しかも
私訳 でこぼこ道で継ぐ、その磐余の山に白栲のように白く懸かっている雲は、皇太子であった貴方の魂でしょうか。
 
 引用すべき歌が大分のため今回は歌の紹介自体を端折ました。お手数ですが、参照歌番号を載せていますので、必要に応じて万葉集の歌をネット上から検索して頂きますようお願いいたします。お手数をおかけして申し訳ありません。
 最後に正規の教育を受けていませんので、論理だったものになっていません。もし、卒論のテーマを探していらっしゃる人、歴史小説のテーマを探している奇特なお方が、ここでの提起を面白いと思って取り上げ、論として頂ければ、幸いです。どなたか、いらっしゃらないでしょうか。
 おまけとして、個人の推定で石田王は万葉集の歌から推定すると弓削皇子と紀皇女との間の御子と思われる人物です。この弓削皇子は天武天皇と天智天皇の娘の大江皇女の御子であり、紀皇女は天武天皇と蘇我赤兄の娘の大蕤娘との御子です。奈良時代にあって、石田王の血筋としては最高峰に位置する立場です。この石田王を扱うなら、弓削皇子と紀皇女との間でのロマンス、ファッションセンス豊かな貴公子石田王の夭折、藤原一族との暗闘、などと、話題性は抜群と思います。
 

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