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万葉集と古今和歌集とを繋ぐ

 私のNOTEに載せる記事は、まったくの与太話です。さらに増して、これは将来のNOTEに本格的に載せる記事のネタとしての備忘録のようなものですので、海のものとも山のものとも不明なものです。酔加減なものですので、そのようなものとしてお楽しみ下さい。
 このところずっと新たにNOTEに載せ遊ぶネタがなく苦労していましたところ、万葉集の末の歌と古今和歌集の頭の歌とが呼応している可能性があるとのご指摘がありました。ネタとして大変においしいものと感じ、ここにそれをネタとして万葉集に遊ぶ次第です。
 最初にその万葉集での最後に載る歌と古今和歌集の最初に載る歌を紹介いたします。
 
三年春正月一日、於因幡國廳、賜饗國郡司等之宴謌一首
標訓 三年春正月一日に、因幡國の廳にして、饗を國郡の司等に賜はりて宴せし謌一首
集歌4516
原文 新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流由伎能 伊夜之家餘其騰
訓読 新しき年の始の初春の今日降る雪のいやしけ吉事
私訳 新しい年の始めの初春の今日、その今日に降るこの雪のように、たくさん積もりあがれ、吉き事よ。
 
歌番号一
詞書 布留止之尓春多知个留日与女留 在原元方
詞訳 ふるとしに春たちける日よめる 在原元方
和歌 止之乃宇知尓春者幾尓个利比止々世遠己曽止也以者武己止之止也以者武
読下 としのうちに春はきにけりひとゝせをこそとやいはむことしとやいはむ
通釈 年の内に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ
 
 大伴家持が詠う万葉集の方は官庁定例行事として新年祝賀の宴で詠う当時としては儀式式次第での定型を雛型とした寿ぎ歌ですから、特段、面白みがあるわけでもありませんし、秀歌と云うものでもありません。確認すれば判りますように万葉集には類型の新年宴会の寿ぎ歌が他にも多数、載りますし、大伴家持自身も別な場所で類型の寿ぎ歌を歌っています。従いまして、万葉集最後の歌となる集歌4516の歌は単に天平宝字三年正月と云う「時」を詠ったという位置付けです。
 他方、古今和歌集の方は暦からの遊び歌です。言葉として、暦の分野では太陰太陽暦において新年を迎える前に二十四節気の立春になることを年内立春と呼びます。そうしたとき、紹介しました古今和歌集の巻頭を飾る在原元方の歌はこの年内立春を題材にしたものです。太陰太陽暦になじみのない現代では歌の雰囲気から暦の上での年内立春と云うものに季節感からの戸惑いを感じると云うのが標準的な鑑賞でしょうか。歌の特徴から見ますと暦からの遊びはありますが、だからと云って歌が秀歌かと問われると難しいものがあります。この暦からの遊び歌ですが、秀歌じゃない。でも、古今和歌集の作品の最初の歌です。
 一方、暦の研究からしますと、太陰太陽暦の特徴として近世に使われる太陰太陽暦(天保暦)では平均で二年に一回は年内立春となり、歌が詠われた平安時代に使われた太陰太陽暦(宣明暦)では平均で三年に一回、年内立春と云う暦の巡り会わせとなります。つまり、太陰太陽暦において年内立春はオリンピックゲームよりもありふれた出来事となります。このため、ありふれた出来事であるがゆえに在原元方が歌を詠った年をこの年内立春と云う出来事からは確定する事が出来ません。このような解説を発見しますと、従来の鑑賞態度に逆に戸惑いを感じます。現代ですと、判り切った出来事をさも大げさに誇張しますと「えぇ、そこかよ」と突込みが来ることは間違いありません。年内立春は暦上ではその程度の出来事です。
 さて、暦で遊びますと天平宝字三年正月一日は西洋暦では759年2月6日です。そして話題としています立春は定気法では太陽暦2月4日になりますから、大伴家持が新年を寿ぐ歌を詠ったときはもう立春を過ぎています。つまり、年内立春の年だったのです。暦ではそのシーズンの立春は天平宝字二年十二月二八日でした。
 すると、紀貫之たちは万葉集最後の歌が詠われた年が年内立春の年だったことを知っており、それを受けて在原元方が詠った年内立春の歌を古今和歌集の巻頭に持って来たと思われます。つまり、ご指摘のように万葉集の末の歌と古今和歌集の頭の歌は、暦と云う遊びの中で応答していることになります。
 古今和歌集の編纂は紀友則・紀貫之・河内躬恒・壬生忠峯等と真名序に名が載る人たちにより行われていますが、彼らは暦の専門家ではないために約百五十年以上も前の時代の暦を正確に知っていたとは思えません。また、正史の続日本紀にも立春の記事はありません。可能性として暦を管理する陰陽寮に奈良時代からの具注暦が残されており、それをもって暦の面白みを知ったのでしょうか。
 以前にこのNOTEの記事「謎解き 万葉集 最後の歌の成立を考える」で酔論を述べましたように二十巻本万葉集の編纂事業は宇多天皇に深く関わると思われ、宇多天皇が天平宝字三年正月一日と云う日でもって万葉集を閉じることを決めた可能性があります。古風に物事の終りを目出度く閉じると云う要請に対してその特別な日を吉凶占いで確認・決定しますと、万葉集最後の日となる天平宝字三年正月一日とは当時の旧暦表記では天平宝字三年正月戊辰朔で、この日は養蚕掃立の吉日、十二直では満、二十八宿では鬼(き)と云う全てが大吉と云う大変にお目出度い日となります。重ねて当日は正月一日と云う新年を祝う日でもあります。実に万葉集という大和歌の詩歌集を閉じ、完成とするには大変にお目出度く、相応しい日と云うことになります。逆にこの暦日での吉凶占いへの態度を想像しますと、この天平宝字三年正月戊辰朔と云う「時」が編纂において設計されているとも考えられます。そして、このように「時」が設計されているのなら、万葉集の編集では、これ以降に大伴家持や万葉集晩期の歌人たちである中臣清麻呂、市原王、大原今城たちが歌を詠った記録があったとしても、採用はされないのです。これですと、宇多天皇も納得する万葉集という詩歌集の取り扱う期間の設定ではないでしょうか。他方、十二直は正月節では立春から最初の寅の日を数え初めの基準としますから、必然、天平宝字二年十二月二八日が立春だったことを二十巻本万葉集の編纂関係者は知っていることになります。
 妄想ですが、この天平宝字三年正月戊辰朔は暦からの吉凶占いでは養蚕掃立の吉日、十二直の満、二十八宿では鬼に当たり、物事の満了を意味します。加えて、この吉凶占いからしますと天平宝字二年十二月二八日が立春だったと云うことを紀貫之たちは古今和歌集の編纂開始に当たり知っていたと思われます。これを受けて、最初は編集者の意見では続万葉集の集名となる予定だった、万葉集を受ける古今和歌集は年内立春の歌から始めなければいけなかったのでしょう。このような背景があったため、古今和歌集は真名序に示すように、最初、紀貫之たち 編集者たちにより続万葉集という名称で奉呈されたと考えます。
 参考として、私が妄想する現在の万葉集においてその巻十六までの基盤を為す原万葉集は二部構成で編まれたと考えています。その原万葉集を構成し、奈良遷都までの前半を扱う「奈弖之故」は天平勝宝七歳五月己未朔己已に上梓されており、この日は養蚕掃立の吉日、十二直の建、二十八宿では弖(てい)であり、これらは物事の根本を意味します。ついで後半の奈良遷都から後期難波遷都までを扱う「宇梅乃波奈」は天平宝字二年二月癸卯朔丁已に上梓され、この日は養蚕掃立の吉日、十二直の満、二十八宿では角(かく)に当り、物事の満了を意味します。斯様に二十巻本万葉集の基盤を為す原万葉集の上梓では吉凶占いによりその上梓・奉呈する日がデザインされています。これを平安時代の貴族たちも承知・継承し、それに習って二十巻本万葉集の末の日を決めたと考えます。
 もう少し妄想しますと、万葉集最終の歌に対して年内立春の歌を巻頭に置く態度からしますと、当初、紀貫之たちの古今和歌集編纂への意識は続編万葉集を編纂すると云うものが強く存在したのでしょう。ただ、宇多天皇は二番煎じとなるような「続万葉集」と云うその臭いを嫌い、真名序に「各献家集并古来旧歌、曰続万葉集。於是重有詔、部類所奉之歌、勒為二十巻、名曰古今和歌集」と記すように、新たな時代の和歌集と云うことで「続万葉集」ではなく、独自性を持たせたものへと再編纂を要求したのでしょう。それでも、真名序は「嗟乎、人丸既没、和歌不在斯哉」、仮名序は「人麿亡くなりにたれど、歌のこと留まれるかな。たとひ時移り事去り、楽しび悲しび、行き交ふとも、この歌の文字あるをや。青柳の糸絶えず、松の葉の散り失せずして、まさきの葛長く伝はり、鳥の跡久しく留まれらば、歌の様をも知り、事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて、今を恋ひざらめかも」と序の文を閉じますから、やはり、彼らの編纂意識の根底には「続編 万葉集」が強く存在したと思います。古今和歌集は私の守備範囲ではありませんので、やや、歯痒いところがあります。
 行ったり来たりしていますが、私が妄想しています奈弖之故と宇梅乃波奈の上梓の日の推定は、今回、別な視線から推定した二十巻本万葉集を閉じる日に通じるものがあります。あれも妄想、これも妄想と云うものからの思考の組み立てですが、結論ではこの特別な偶然の一致で暦の吉凶占いから、酔論したすべては吉日の日がデザインされていた。ここへと収束します。与太話ですが、非常に可能性の高い与太話と云うことになります。
 今回はいつもの妄想に加えて暦遊びをしました。ただ、妄想世界での偶然の一致からしますと、可能性のある妄想と考えます。そこでもし、ご来場の奇特なお方のお目に留まり、古今和歌集と万葉集との接続関係をご教授頂ければ幸いです。
 最後にコメントとして話題となりそうなネタを頂き、それを調べてみますと、結構、面白い方向性が見えました。大変にありがとうございました。
 追記参考として、現在は非常に便利な世の中になりました。和暦と西洋暦はHP「換暦」というところで換算計算が出来、暦の吉凶はHP「暦注カレンダー 高精度計算サイト」で調べることが出来ます。もちろん、これらは飛鳥時代から現代までをカバーしています。弊ブログでは和暦と同時に西洋暦を載せますが、そのデータはこれらのHPからのものです。酔論を述べるとき、対象の物事の時系列を整理したり、吉凶を確認したりするのに実に便利です。
 日常生活において現代でも結婚式・上棟式や葬儀などで和暦の吉凶にこだわる場面に出会う事があります。古代から中世では和暦の吉凶は現代よりも政治・生活の場で大きな比重を占めていました。従いまして、予定された「時」と云うものが重要な場面ではその「時」と云うものは吉凶占いからデザインされた日程だった可能性があります。ご存じのように、古代・中世ではこの目的のために朝廷には陰陽寮と云う専門の役所がありましたから、気になる「時」については暦での吉凶を確認すると面白いかもしれません。
 おまけのおまけで、後撰和歌集の巻頭部は正月一日と立春の歌を置きます。当然、万葉集と古今和歌集との接続を承知したものと思います。加えて、拾遺和歌集の巻頭部は後撰和歌集とは逆となる立春と正月一日の歌を置きます。およそ、拾遺和歌集の時代、藤原道長に代表される万葉集の研究が盛んな時代ですから、その研究の成果を踏まえた上に古今和歌集や拾遺和歌集の編集も承知していたと思います。
 派生として万葉集や古今和歌集の歌で特別の行事を詠うものを、ある種、卒論のテーマとして調べてみたら面白いかもしれません。まず、このような視線から和歌に遊んだ人はいませんから、色々と独自の視線で遊べるのではないでしょうか。

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