キャンバスの外へ流れる景色、僕がモネを観るときは(24/03/01)

一般的に言って、特定の物事を好きなことに理由はなく、逆に嫌いなことには理由がある。だから、もしも僕という存在を、身の回りの物事を列挙するという仕方で表現するのなら、並べるべきものは好きなものではなく、むしろ嫌いなものであるべきだ。
そういう意味で、モネの作品は、僕が自分を解釈するのに向いている。言い換えれば、僕はモネが苦手だった。
そんな僕が立て続けに2度も彼の連作の展覧会に赴いたのには、やはり、僕という人間が、どのようにして絵画と向き合っているかということが、彼の作品群を通して朧げに見えたような気がしたからだ。
だからここでは、この半年に僕が観た印象派の数々について言及することで、『苦手だったもの』を通して、僕がどのように芸術作品と向き合うべきなのかということを著したいと思う。

例えば、『睡蓮』を眺めるとき、僕はその”覚束なさ”に不満を抱いていた。それは『積み藁』でもそうだし、またはロンドンの橋梁を描いた一連の連作についても同様だ。ぼやけた雰囲気、消失した輪郭、乏しい色彩の変化に、僕はどうしても違和感を禁じ得なかった。
しかしながら、むしろその”覚束なさ”こそがモネという画家の最大の特徴であり、今もなお多くの人々を魅了する源泉なのだ。

彼を含めた印象派の作品の顕著な特徴の一つとして、”光の表現”が挙げられると思う。光が、例えば静物の仔細に注がれる時、ルノワールのような個物の存在感が強調され、また花々に注がれる時、ゴッホのようなの広々とした躍動を生む。また実際、モネが数多の連作で挑戦したのは、光の移り変わりによる風景の描写であるとされている。
そして光の表現とはすなわち、水と空気の表現に他ならない。水と空気は、画家が置かれていたであろう風景の、鼻腔をつく潮の香りや、肌を掠める渓谷の冷風や、水面を叩く降雨の音や、そういう五感を想起させる。僕らは目の前の絵画を通して、匂いや温度、音やそこに流れていた時間を追体験することができる。光の描写とは、畢竟、時空間の描写に他ならない。
そういう、絵画に内在する、視覚情報を超えた感覚は、僕をその絵画へと没入させ、また同時に、キャンバスの外に広がっていたであろう世界を想像させる。美術館の壁に掲げられた絵はもはや額縁を逸脱し、壁全体に広がり、空間を支配し、僕は例えばモネの過ごした田舎町の海岸に立つこととなる。
僕が感じていた”覚束なさ”はむしろ、そういう拡張性を担保するものなのだと、やっと実感することができた。

この感覚をもう少し異なる視点から解釈することにしよう。キーワードは『対峙性と類似性』である。
対峙性とはつまり、その絵画を(もしくは画家自身を)理解しようとする立場のことだ。絵画を眼前に置いて対峙し、つぶさに仔細を観察することで、理解しようとする姿勢のことだ。
一方で、類似性とは、共感である。自分自身を絵画に描かれた世界へと置いて、画家の視点で風景を眺める姿勢。そこにはもはや、理解などというロジカルな試みは存在しない。ただ風の音や、のどかな海鳥の囀りや、暖かな陽の光を感じる。モネを観るとき、僕らはそれを理解するべきではなく、画家自身の感性に、共感しようとするべきなのだ。
そのためには、印象派絵画は、”印象的”でなければならない。つまり、そこにある事物たちが、輪郭によってはっきりと切り離されるのではなく、全体として一個の風景でなければならないのだ。この”印象的”な作風こそ、モネの”覚束なさ”であり、人々を魅了する原点なのだと、僕は考えている。

対峙性と類似性という概念は、もちろんモネや印象派絵画に限ったことでない。例えばルネサンス以降の宗教絵画にはむしろ対峙的な立場を取るべきかもしれないし、近現代のコンセプチュアルアートは、聴衆の対峙性を前提においている。結局のところ重要なことは、「どういう見方が正しいか」ということではなくて、「今自分はどういう見方をしているか」を理解することなのかもしれない。

蛇足かもしれないが、こういう概念は、実生活や研究など、あらゆる場面に敷衍できるかもしれない。ある物事を前にしたとき、今僕は理解を目指すのか、もしくは共感を目指すのかということがはっきりとしたときに初めて、僕らは物事を、他者を、そして自分自身を少しばかり知ることができるのかもしれない。おわり。

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