21/9/30 アンパントイレが旧人類を駆逐するまで

旅先でふらりと訪れた場末の居酒屋で、僕は久々にアンパントイレに再会した。
もともと和式便所だったところに半ば無理やりに便座を設置して高さのない洋式にする、和式を洋式が覆い隠すという意味で僕はそれをアンパントイレと呼んでいる。正式名称は知らない。和洋折衷なそいつに異邦の地で再会したのだ。不格好で、滑稽で、それでいてどこか愛おしいそいつはやはり、歴史を感じさせる個室の中で一際新しい、異質なクリーム色を放っていた。

僕は生粋の和式派だが、物心ついてから今までを振り返ると圧倒的に和式便所との出会いは少なくなった。僕が生まれた頃より後に建てられた建造物のトイレは大体どこも洋式だし、古い外観の駅やビルでも、リフォームされたトイレにはもう和式を見つけることができない場合が多い。
和式派の肩を持つわけではないが、公衆の場にあって和式スタイルは、非接触という点で合理的だ。洋式が”間接キス”状態であるのに対して、和式にはそもそも接触という概念がない。”ディスタンス”が叫ばれる昨今において和式便所は温故知新、再評価される対象だと言える。
しかし一方で、高齢社会の中で洋式が普及するのもごく自然だと思う。腹にテロリストを抱えて切羽詰まった僕らに無言で筋肉を要求してくる和式に対して、洋式に”踏ん張る”という作法はなく、いかにも自然に僕らを快感へと導いてくれる。バリアフリーという観点からすれば洋式への移行というのは反駁の余地がない。

きっとこれからはさらにトイレの洋式化が進むだろう。もう新たに和式を導入する施設もないだろうから、和式はほとんど絶滅危惧種になり、和式派を自称する僕のような人間は完全に旧人類となる。換言すれば、旧人類にとってアンパントイレという存在は、駆逐の象徴であり、人類進化の過渡期に現れる象徴的な存在だと言えるかもしれない。悲しき旧人類、悲しきアンパントイレ。
しかし同時に、僕はアンパントイレを見ると、いい知れない愛おしさを感じる。その複雑な感情には、切なさとか寂しさとかなんだかノスタルジアのような雑多な感覚が混ざっている。そしてそれはきっと、洋式への変遷という歴史性の持つホスピタリティへの尊敬と、その下で冷たく眠る和式への懐旧の心から来るものだ。アンパントイレという駆逐の象徴がある限り、逆に僕らはいつでも和式への憧憬を思い出すことができる。

さらに論を飛躍させるなら、これはほとんど完全に文明の進化についての話だと言える。マジョリティにとって合理的な新技術が出現すると、あらゆる分野で”アンパントイレ”的な過渡期を経ることになる。和式が洋式の下で眠るように、旧来の技術は新技術で上塗りされ、僕らは相対的に旧人類へと成り下がる。
けれど、愛おしさとか懐古というのはそういう駆逐の中にあるのかもしれない。そして愛おしさが人生に意味を付随させるものなのだとすれば、旧人類になることが常に悪いことだとも言い切れない気がする。
旅先のアンパントイレの向こうに旧人類の愛おしさを見た話。おわり。

追記。今回はハートフルっぽい平穏な話になっているが、もっと過激なことを言うとそもそもロンとして、やっぱり和式がいいよという人も無視できない割合で存在するのではないかと僕は思っている。和式洋式論争にちゃんと決着をつけるべきだと思うのだ。洋式派新人類と、我々旧人類は共存するべきなのではないかと思っている。

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