研究室のタイガーマスク
はじめに
僕の周りの博士課程進学者はだいたい、「僕私にはこの道しかない」というタイプと、「とりあえず進んでみる」というタイプに大別される。多くは前者のような気がするが、残念なことに僕は圧倒的に後者だった。僕はどうしてもいろいろなことに目移りしてしまう。よく言えば興味の幅が広いということだが、その実、結局はミーハーなのだ。キルケゴールに言わせれば僕の”あれも、これも”という生き方は最終的に絶望へと繋がるのかもしれないが、これはもう、どうすることもできない。
そんなわけで、僕は”とりあえず”博士課程に進学した。それが20代後半の自由度を最大化できる道だと思ったからだ。その代わりに毎晩、将来への不安を抱き枕にして眠っている。
そんな僕にも、博士課程に進学する上で『こうはならないでおこう』と決めていたことがある。それは”研究室のタイガーマスク”になることだ。僕はこの”研究室のタイガーマスク”をこれまでに何度となく見てきた。そしてようやく、彼らが、もしくは未来の僕が、何故マスクで顔を隠さなければならなくなったのかが少しだけわかったので、ここに留めておくことにする。
研究室のタイガーマスク
中島敦の小説に『山月記』というのがあるが、タイガーマスクはここから派生した概念だ。物語の中で御史となった袁傪は人喰い虎に出会うのだが、それはかつての友人、李徴であり、彼が虎になってしまった理由や苦悩を語るというのが大まかなストーリーだ。僕はこの李徴が抱える臆病な自尊心と、尊大な羞恥心を大学院生に見た。
僕は、後輩に向かって「あいつは就活ばかりして全然実験しない」とか「あいつは研究のことを何にもわかっていない」みたいに評価を下す博士学生にだけはなるまいと思っていた。そういう類の発言は自分を肯定するためだけのもののように見えたからだ。さらに言えば、アカデミアという狭い世界で自分の存在を肯定するために、または同期たちが社会人になる中で研究を続ける自分を慰めるために吐かれた言葉のように思えたからだ。
そして僕は彼らのことを”タイガーマスク”と名付けた。臆病な羞恥心と尊大な自尊心を抱え、人を喰らうことしかできなくなった李徴のように、彼らもまた、自己存在の否定と肯定の間で揺れ、虎になりかけているように見えたからだ。
マスクの有無は自分でわからない
そして博士学生となった僕は今、恐怖している。自分がマスクを被っているのではないかと。自分の言葉の節々や一挙手一投足を振り返っては、(あれは虎だったのではないか)と疑うことをやめられない。そしてその恐怖は、『自分がどう見えているかは自分ではわからない』という言わば自明の真理に依拠している。
発言だけではない。例えば一般教養の講義にアシスタントとして入ったとき、1年生の発表を聞いて”浅い”と思ってしまう自分がいる。僕ならこういう視点で、こういう例示で...と考えてしまうのだが、これはもう、完全に虎だ。僕は自然に心の中で浅さを指摘している自分がとても怖い。あの日僕が一番嫌いだった学生に、僕は今、確実に近づいている。
マスクの裏側で
少し冷静になって、どうしてマスクを被らなければならなくなったのか、ということについて考えてみると、これには一種のトレードオフが関係しているように思える。
つまり、『象牙の塔にこもればこもるほど、自己存在がふやけてしまう』ということだ。”ふやける”という表現が正しいのかわからないが、なんというか、自分の相対的な立ち位置が掴めなくなったり、手放しに自分を皇帝できなくなったり、そううイメージだ。
研究に時間をかければかけるほど、自ずと自分を取り巻く世界は狭くなる。するとある時、僕らは自分がふやけていくことがとてつもなく怖くなる。そして最終的にその恐怖や焦燥が、過大な自己肯定や他者への攻撃につながるといったところだろうか。
しかしこう考えると、やっぱりタイガーマスクの下には哀しみを讃えた横顔を想像せずにはいられない。ふやけていく自分をなんとかかき集めて、ようやく一個の生物であろうとする、そんな姿に哀れみや切なさを感じてしまうのだ。
おわりに
『山月記』で虎は、旧友に詩を託し、月光に吠えて姿を消す。そして以降彼がどうなったかは明示的には語られない。では、現代に巣食うタイガーマスクはどうなるのだろうか。
これはとても言いにくいのだけれど、残念ながら、マスクを被ったままの教員を見たことがある。また、自分のマスクに気が付きながらそれを脱ぐことができず、苦しんでいる社会人を見たこともある。僕らが抱える孤独は、未来に渡って良くも悪くも影響を与えるということなのだろう。
僕はというと、現状では虎と人間を行ったり来たりするほかないと思っている。心優しい虎男?まあ、そんな感じ。
おまけ
実は僕がnoteを書き始めた理由の一つに、”虎になっても良い場所”を作るため、というのがあります。普段関わらない赤の他人には、僕が虎になるところを見せても実害はないからです。もし億が一に、知り合いが見たなら、「ああ、あいつ、虎になってるわ」とそっとしていてくれればと思います。
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