『火星大接近』(2020年)
以下の文章は、3年ほど前に僕自身が記したものだ。フォルダ整理の関係でたまたま見つけた。削除しようかとも思ったが、一応ここに残しておくことにする。誰かが評価してくれたことを思い出したからだ。全く忘れてしまっていたけれど、以前ある出来事がきっかけで、某出版社の編集者がこの文章を読み、出版を打診してくれた。当時の僕にはこれを加筆する時間も能力も余裕もなかったので丁重にお断りしたが、素直に言えば、たとえお世辞であっても数ヶ月にわたって何度も電話をくれたことは、自己肯定の源泉であった。あの人は今、誰のどんな文章を読んでいるのだろうかと、少し考えたりする。
今読み返すと、言葉の重複や音の心地よさに難癖がつく点もあるが、当時の自分を客体視するためにも、加筆修正することなく保存する。
『火星大接近』
こんなことをしている場合ではないのだ。こんなことというのはつまり深夜を過ぎた研究室で一人、秋の肌寒い風を浴びながら安いチューハイを飲んで駄文を書いているということだ。僕は本当にこんなことをしている場合ではない。僕の前には山のように積み上がった『やるべきこと』とそれよりは少し小さいくらいの『やりたいこと』が横たわっていて、そいつらは僕をじっと見つめてくる。そして時折、こちらに向かって「何をしているのだ」と急かすのだ。
人生はまるで残尿みたいだと思った。汚い小便器の前でどうでもいいような量の尿を永遠と待っている。腹に力を入れてみたり、部分をふってみたりするのだけど、僕の中にいる気持ち悪い何かはうんともすんとも言わない。そのうち僕が諦めて部分をしまうと、途端に生暖かい尿が溢れてくるのだ。
僕はいつも気持ち悪い何かを抱き続けている。色々足掻いてみるのだけど、それは一向に体から出て行こうとしない。仕方がないので諦めると、それは出てくる。大した量ではない、出てしまえばちっぽけなものなのだ。なのに体の中にあるうちは耐えられないくらい気持ち悪い。僕はずっと残尿を感じて生きている。
今日は火星大接近の日らしい。それに月もほとんど満月で、珍しい天体ショーだと誰かが言っていた。僕の研究室からは火星も月も見えない。ただ真っ暗な夜空が広がっていて、冷たい風が吹いて、どこかで虫が鳴いているだけだ。
人間というのは驚くほど忙しい時にしか本当に美しいものは生み出せない、と常々思っている。でも残念なことに、人間は驚くほど忙しい時、美しさなんてのは気にしていられない。それに、だいたいは美しさなんてのとは全く無縁の何かに忙殺されているのだ。そういう意味で、僕らは本当に美しいもを見たことはないのかもしれないと思う。人間はこれまでも、そしてこれからも、本当に美しいものを見つけることはできないのだ。
僕は今、驚くほど忙しいと言ってもいいくらい、忙しい。いや、もしかすると日本語で忙しいという時、なんだか充実しているような響きがあるけれども、全然そうではなくて、僕はもう壊れそうだ。いつでも叫びたいと思っているし、ちょっと口に指を突っ込めばすぐに嘔吐することができる。
想像通り、僕は今、美しさなんてどうでもいい。もし何か美しいものを発見できるとすれば、それは唯一、僕の死体だろうと思う。もしかすると現実は僕を殺そうとしているのかもしれない。
やっぱり僕の研究室からは火星が見えない。数年ぶりに大接近しているらしいけれど、その光の断片も、音も、匂いだって全然しないのだ。世界中の人が見られるはずの天体ショーを、僕は見ていない。僕は缶チューハイをちょっと飲んだ。
優しさというものが実は刃物であることを僕は知っている。優しさは弱っていれば弱っているほど、心に深く突き刺さる。だって優しさをかけるということは、相手が弱っていることを知っているからだし、だからかけられた方は自分が弱っているということを無理やりに自認させられるのだ。もちろん刃物は誰かを守るためのものだけれど、誰かを守ることができるものはだいたい、誰かを傷つけることもできるのだ。
僕の周りにいる人はみんな等しく優しい。僕を優しく見守ってくれているし、僕に優しい言葉をかけてくれる。だから僕は、いつも串刺しなのだ。どこかの悪い王様が作った拷問器具か、マジシャンが脱出マジックに使う箱みたいに、僕はいつも刃物を刺され続けている。
誰も悪くない。僕以外の誰も、悪くないのだ。慰めとかお世辞じゃない。僕は本当に誰も恨んでいないし、それどころか愛してさえいる。僕の身体中から流れ出す血液は、僕の意思とは関係なく流れる。僕に突き刺さる刃物も、誰の意思とも関係なく突き刺さるのだ。これはもう、誰にもどうしようもない。
火星は誰に指図されることもなく回っている。どころか、今夜地球に接近することさえ、意図していない。ショーなんて言っているが、それは見ている側の問題で、火星も、月だって、もちろん約束して今夜現れたわけではないのだ。そしてもちろん、僕がそれらを眺めていないことだって、火星や月は全然知らない。
僕は今、比較的死に近いのだなと思った。こんなふうに書けば、ものすごくたいそうで危険なことのようだけれど、僕はとても穏やかだ。全然怖くもない。
死の淵というのは急に現れる。それはまるで出来の悪い落とし穴みたいで、遠くにいる時は全然自分とは関係のないものだと思っているのに、歩いているとある瞬間、急に足元に現れる。タチが悪いのは、それが近くで見るとバレてしまうということだ。もちろん僕が全速力で走っていたなら、そんなものには気がつかずに通り過ぎるか、または知らない間に落ちてしまうかだろう。でも今のようにゆっくりと歩いていると、それが目の前にあることを実感する。地面がきれいに縁取られていて、そこだけ色が少し変わっているのだ。
僕は淵の前で立ち止まる。どうしようか考える。その穴がどれくらい深くて、どれくらい汚いところなのか想像する。もしそれが田舎の風呂より少し深くて、きれいに掃除してある心地の良いところなら、すぐにでも飛び込むだろう。でもきっと、そんなことはない。だって落とし穴なのだから。多分、僕が歩いてきた地面と対して変わらない空間がそこにあるのだろう。
やっぱり火星は見えない。ショーの音も聞こえない、残尿は溜まり続けているし、美しいものは一向に見つからないし、目の前には落とし穴が開いている。
でも、それでいいのかもしれない。希望があるわけじゃないけど、絶望も持ち切れないほどではないし。そろそろ帰ろう。自分を許して今日は眠ろう。それから朝になって、昼が来て、夜になって、火星が少し遠くなった空を見ながらまた缶チューハイを飲もう。
こういう散文詩的な文章を書くとき、結末を前向きに終わらせる癖は、今でも抜けていないと実感する。どうしても痩せ我慢のように見えてみっともないが、そういうふうに生きてきたのだから仕方ないなとも思う。
それにだいたい、人間はいつだって死にかけなのではないかとも思う。生きているということはつまり、死にかけているということなのではないか。後生大事に抱えている生命というものが、大した価値のあるものでないことに気がついたという点では、3年前よりも多少成長しているのかもしれない。
次に火星が近づく頃には、もう少しマシなことが書けていれば嬉しい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?