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人の心に寄り添うLGBTQ+のゲーム

 こんにちは、マサケイです。今年も「ゲームとことば Advent Calendar」に参加します! 今回は「ゲームと人生」がお題で、自分の人生を変えた、ターニングポイントとなったゲーム1本について語ることになっています。参加者たちの記事が1日1つずつ公開されます。

 今回は韓国のインディーゲームではなく、LGBTQ+の人々を描いたゲームの話です。アイルランドのインタラクティブなビジュアルノベル『If Found...』のことを書きたいと思いますが、まずは最近体験したことから順に遡っていきます。

※この記事には『If Found...』の主人公カシオの性自認について、ネタバレを含みます。結末には触れていません。

 今年の10月に発売された書籍『インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド』にLGBTQ+に関するゲームの章があって(この本にならって、この記事では性的マイノリティの総称としてLGBTQ+という言葉を使っています)、木津毅氏が『Dream Daddy: A Dad Dating Simulator』について書いておられます。それが長年私の気にかかっていたことの答えになっていたように思いました。引用させていただきますと、

さらに面白いのは、中年男性同士のほのぼのした恋愛模様を描くことで、中高年男性がいわゆる「トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)」をどのように脱しうるかがテーマになっている点だ。男性同士の競争的でない心のケアや、弱音や悲しみを吐露すること、子育ての悩みを分かち合って助け合うことなど、これまで過剰な「男らしさ」の理想像によって抑圧されてきたものが、ここではごく自然に達成されているのだ。1)

1) 監修・文 田中 “hally” 治久/今井晋
文 徳岡正肇/洋ナシ/櫛引茉莉子/木津毅/松永伸司/葛西祝/藤田祥平
近藤銀河/野村光/古嶋誉幸/山田集佳
, インディ・ゲーム新世紀ディープ・ガイド――ゲームの沼
,株式会社ヴァイン,2022,p.107

 中高年男性同士に限った話ではないのですが、LGBTQ+の作品から私が感じ取ったのは、ここに書いてあるような「競争的でない心のケア」や「悩みを分かち合って助け合うこと」でした。映画ではLGBTQ+の作品をあまり観ていなかったので、インディーゲームがいいきっかけになりました。『one night, hot springs』を含む3編の連作『A YEAR OF SPRINGS』や『Butterfly Soup』といったビジュアルノベルもプレイしましたし、itch.ioの大規模バンドル「Bundle for Racial Justice and Equality」に入っていた『Dungeons & Lesbians』(以下D&L)という作品もあって、作者公認の日本語化パッチがあったのでプレイしてみたのですが、このD&Lの日本語化に私はかなり影響を受けました。

 この作品もほのぼのとした恋愛模様が描かれており、相手の心に寄り添うようなケア的な内容です。登場人物たちはテーブルトークRPGのセッションをやるようなオタクであり、LGBTQ+とオタクは両立する(?)ということが、親近感を覚えるポイントでした。近年は個人でゲームをリリースしやすい時代になっており、ビジュアルノベルはRen'Pyというフリーソフトウェアエンジンがあって制作のハードルも低く、個人的な体験を表現するのに適したジャンルだと言えます。翻訳用のテキストファイルを抽出する機能がサポートされていることもあり、有志翻訳も盛んで、作者に歓迎されることが多いです。D&Lに触発されて、私も許諾を得てLGBTQ+に関する短編をいくつか有志翻訳したことがあります。LGBTQ+のビジュアルノベルの作者、ファン、有志翻訳者によるコミュニティが暖かいものに見えました。もちろん、「LGBTQ+は善人」という先入観で見てしまうと問題もあると思いますが、LGBTQ+の抱える悩みを分かち合い、助け合う物語が描かれることが多くて、私はそういう作品を自然と選んでプレイしていたのでしょう。

 さらに時を遡って2020年5月20日、私が初めてプレイしたLGBTQ+のゲームが『If Found...』でした。Annapurna Interactiveがパブリッシングするゲームだから映像的に優れた作品なんだろうと思ってプレイしただけで、LGBTQ+を意識していたわけではありません。新作のインディーゲームを求めていたら、たまたまLGBTQ+の人々の物語だったという、私にとっては偶然の出会いだったのです。

 『If Found...』はアイルランド西端のアキル島が舞台で、主人公のカシオは大学院に進学するかどうかという進路が定まらないまま、実家に帰省します。服装こそ中性的ですが、髪を長く伸ばしていて、母親からは「女みたいな髪型にして、昔と変わってしまった」と思われています。カシオは生物学的には男性として生まれて育ち、ダブリンの大学に行ってから自分のスタイルを自分で決めたようです。一見するとトランス女性のようでも、カシオの性自認は女性と定まっているわけではないのです(カシオと名前が似たカシオペアという女性宇宙飛行士が登場するし、このゲームのアートは少女マンガ的なので、女性的に見えてしまいがちですが)。

 そのあたりの背景は冒頭で説明されず、しばらく見ていくと徐々に明らかになっていきます。初回プレイのときは、アート寄りの作品だから説明し過ぎないようにしているのかと思いましたが、今にして思うと、その人の性自認と性的指向が他人から見てわかりにくかったとしても、そこにわかりやすさを求めてしまうのは性の多様性を否定することになりかねません。本人にもわかっていない、あるいは、はっきりさせたくないこともあります。おそらくこの作品では、意図的に説明していないのです。

 こう書くこと自体が少しネタバレになってしまっていますが、私が体験したのは、初見のときは「カシオはトランス女性なんだな」と一方の性に当てはめようとしていたけれども、のちに見方が変わっていったということです。さらに、この作品はアイルランドの法改正の歴史とも関係があって、物語の舞台となる1993年は、アイルランドで同性愛がようやく非犯罪化された年で、街中で手をつなぐ同性カップルが少し見られるようになったものの、まだ偏見は根強いという時期だったようです。同性婚が合法になったのは、さらに先の2015年です。同性婚の合法化が国民投票によって実現したのは、世界初でした。ディレクターのLlaura McGee氏自身が90年代当時を経験していて、カシオたちの物語も、同性婚が認められる現在につながっているということが、作品に深みを与えているように思えます。

 実はリリース当時、日本語翻訳の明らかなミスを私が正誤表にして開発チームに連絡したところ、日本から熱心なフィードバックが来たことをすごく歓迎してくださって、少し交流がありました。(わきまえつつ、本当に明らかなミスだけ直してもらいました。実績のテキストの文節間にいちいちアンダーバーが入っていたとか、本編での章タイトルとチャプター選択が一致してなかったとか、クレジット後の「プレイしてくださってありがとうございました」が大きすぎて見切れていたとか……)そういう経緯もあって、個人的な思い入れが強い作品です。こうやってリスペクトする作品が1つできたおかげで、だいぶLGBTQ+のことに興味を持つようになりました。

私もスペシャルサンクスに載せてもらっている

 さて、これがなぜ自分の人生を変えたターニングポイントかというと、今は私自身が中年の男性であるし、一回り上の世代を見てきて、トキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)からどのように脱するかというのが今まで直面してきたテーマだったからです。

 私がパワハラの被害にあったわけではなく、むしろ職場で人に恵まれたような気がしますが――社会人になってから、世の中がブラック企業に対して声を上げるようになっていったので、この世代の多くが経験しているであろうこととして――労働者の権利を守らず無茶なことを押し通すブラック企業が、そういう体質のまま不況を乗り切ろうとし、管理職もそれを実践するようになってしまうというのは、よく見かける光景だったのではないでしょうか。となると、私はそういう管理職になれそうにもないし、たとえ無理してなったとしても、上の人たちとお付き合いして好かれるとも思えない。明るい展望が持てないから、フリーランスの道を選んだようなところがあります。

 では、善良であろうとすれば無害でいられるかというと、そう簡単ではなく、自分の中にも有害なものがあって、それをため込んでいってしまう危険と常に隣り合わせなのです。家庭や仕事(兼業で受験指導の講師)のことを相手のために熱心にやっているつもりでも、「このままでは大変なことになる」と危機感を募らせ、焦りや苛立ちを露わにして、自分の意見を押し通そうとしたこともありました。そうならないためには、休めるときに休んだり、周りに助けを求めたりしたほうがよくて、なんでも自分一人でなんとかしようとすると自滅を招くと思いつつも、柔軟にできないものです。そんな中で、LGBTQ+の人々が「男は/女はこうあるべき」という押し付けから自由であろうとし、悩みを分かち合い、ケア的な関わりで資質を発揮していく物語に、私は希望を見出だしたような気分になったのです。

 しかもゲームから入ってこういうことに触れられたというのは、感慨深いものがあります。私が生まれた当時は『スペースインベーダー』や『パックマン』の時代で、ビデオゲームは射撃や鬼ごっこといった、遊びの原点のようなものを表現していました。私が歳をとるにつれ、ビデオゲームでも映画のような表現が可能になり、人生のドラマを描くものが増えました。40代になった頃には個人制作のハードルも下がっていて、海外から発信された、性のあり方や多様性といった考え方を受け取れるようになったというのは、人生というものを感じずにはいられません。90年代という同時代を生きた人たちからのメッセージだからこそ、私の心に響いたのかもしれません。


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