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#92 黒人の魂と仏心が混じる大地 @ザンビア・ルサカ郊外

2001年10月8日

晴れて清々しい空気の朝。宿の庭で、玉子焼きを載せたトーストとコーヒーで朝食。ザンビアは元々北ローデシアと呼ばれた植民地で、イギリスによって銅鉱山が開発されたが、1964年の東京オリンピック開催中に独立した。ルサカは首都としての歴史も浅く、見所が無いので、早々に移動することにした。

西村さんと宿をチェックアウトしてバスターミナルへ。ハイエースの乗り合いバスを乗り継ぎ、カピリ・ムポシへ向かう幹線道路を北上。未舗装の悪路へ右折してから、30分ほどバスに揺られて下車。草ばかりの乾燥した赤土の大地が広がり、トタン屋根の小さな売店が一軒あるだけのとんでもない片田舎だった。

目的地に向かっているのか半信半疑で10分ほど歩くと、白いストゥーパ(仏塔)が見えてきた。女の子が二人いたので「ジャパニーズテンプル?」と尋ねると「イエス」との返事。ケニアのナイロビで旅人から存在を聞いて、訪問したかった日本山妙法寺に辿り着いた。平屋の建物が三つあるだけで、ストゥーパがなければ寺とは分からない。瓦葺きの本堂の中、畳の匂いで癒されて、あわよくば日本食にもありつけるかも、という身勝手な幻想は打ち砕かれた。

建物内に入ると5、6人のザンビア人と日本人の初老の男性が昼食の最中。突然の訪問にも関わらず、「昼食はもう食べましたか?」と男性が尋ねてきた。バスの中に偶然パン売りの行商人がいたので、一切れ買って食べただけで空腹だったので、ありがたく頂くことにした。昼食は非常に質素で、ンシマと小さい煮干のような魚の煮物だけ。ンシマは白いとうもろこしを練った主食で、ケニア、タンザニアではウガリと呼ばれていた。

老僧、森下さんにお願いをして数日の宿泊を快諾してもらった。彼は眼光が鋭くて若く見えるが64歳。僧侶というより老練の旅人のような雰囲気を漂わせていたのには訳があった。食後、語ってくれた半生はお坊さんの説法というより、旅の猛者が語る波乱万丈の物語だった。

佐賀の玄界灘を望む海辺で過ごした少年時代。寺の子供だったのでひらがな、カタカナを教わる前にお経の漢字を覚えさせられた。村一番のいたずら者で、貴重な水源におしっこをしてこっぴどく叱られたことも。二十歳になり広島に赴き、被爆者と出会った。乳飲み子を持ちながら母乳は出ず、肌は一面ケロイドの母親に「子供が精神異常になったらどうしたらいいのでしょうか?」と相談されて何も答えることができなかったという。

1960年代、70年代はネパールの日本寺に滞在していたが、厳戒令が出されてインドに逃げた。インドも追い出されて、パリ、ロンドンと移動。その後、アフリカ、中米、アメリカを転々として、30年以上海外で過ごしてきた。日本に戻った際には防衛庁、大蔵省、文部省などへ抗議の為に太鼓を叩いて回ったりハンストするという行動的なお坊さんである。

ザンビアにお寺が出来て7年、森下さんが来て5年。目の悪い老女、学校に通う女の子2人、せむしの若者にHIV陽性の若いカップルなど、村に居場所を無くした人達の共同生活所になっていた。不思議なのが森下さんは英語を流暢に話さないし、ましてや現地の言葉もほとんど話さないのにみんなと意思疎通が図られているところだ。この寺は学校も兼ねていて教室が二つあり、午前中は子供の声で賑やかになる。

夕方、乾燥した畑に僅かながら植えられたナスの水遣り。育って実を成らせるのか心許ないほど苗は元気がなく痩せていた。その後、井戸水のくみ上げのお手伝い。ロープをたぐり上げるだけの単純作業も繰り返せば重労働だ。

森下さんから「夜の勤行に参加するように」と厳命されていた。泊まらせてもらう以上、嫌とは言えない。重い気持ちでお堂の中に入ると、勤行は始まっていた。薄暗い室内でろうそくの灯る立派な拝殿に向かい、参加者たちが太鼓を叩きながら「何妙法蓮華経」と唱えていた。僕らも空いている座布団に胡坐をかいて座り、見よう見まねで、太鼓を叩き、長い節回しで「なんーみょーーーーほーーーーれんげーーーきょーーーーーー」と唱えた。

黒人たちがお経を唱える姿は実に珍しい光景だが、彼らはお経をちゃんと諳んじていた。中でもせむしの若者は、みんなをリードするように大きな太い声を部屋中に響き渡らせていた。勤行は居心地が悪かったが、張り上げる声で繰り返される彼の読経は、魂の叫びのようで不思議と心まで響いた。

空腹で待ちかねた夕食は、昼に残ったンシマをお湯で溶いて砂糖を加えたお粥だけ。質素この上なく、正直なところ物足りなかった。食料を持ってくるべきだった。いや、折角この場にいるのだから、彼らと同じものを食べてこそ意義があるのだと、グーッと不満を漏らす胃に言い聞かせた。

実はこの場所に来た密かな目的の一つは日本語の本を読むこと。旅をしていると日本語の活字が恋しくなるものだ。小さなゴキブリが沢山這い回る部屋に漫画「美味しんぼ」を持ちこみ、ろうそくの灯りで遅くまで貪るように読んだ。

翌日、太陽が昇る前に起きてナスの水遣りと朝の勤行。朝の勤行は広い庭で行われる。庭は曼荼羅型に池を作って庭園になる計画だが、まだ穴掘りが始まったばかり。重機もなく、完成は何年後になるのか検討もつかない。以前は現地人に工事を頼んだこともあったが、途中で仕事を投げ出してしまったそう。

志村けんがその昔「大丈夫だー」と叫んでいたときに使った、平らな太鼓を「ドン、ドン、ドン」と打ち鳴らし、森下さんを先頭に、「なんみょーほーれんげーーーきょーーー」とお題目を唱えながら、庭とストゥーパの周りを回り、昇ってくる真っ赤な朝日を拝みながら元蟻塚の小高い場所で太鼓を叩いた。

森下さんが、今日はJICA事務所に行き、その後大統領官邸の前で太鼓を叩くといって朝早く出掛けてしまった。朝食はキャベツの煮物とンシマ。森下さんの不在をいいことに僕らは部屋に引き篭もり、昼間から「美味しんぼ」をむさぼり読んだ。

しかし、それだけで一日終わっては流石に罪悪感を抱いてしまう。せめてもの罪滅ぼしに午前と午後に分けて西村さんと造園作業。削った土をスコップで手押し車に載せて蟻塚に持っていき、へこんだ部分を埋める作業。強い日差しの中で久々の肉体労働は辛かった。自主的にやっていることだが、終わりの見えず果てしない作業に徒労感を覚えた。

夕方、野菜に水遣りをしたあと、薪で沸かしたお湯で五右衛門風呂に入り汗を流した。夕方の勤行は森下さん不在でも行われていて感心した。夕食は小魚の煮付けとンシマとオクラ。アフリカ原産の野菜オクラは現地でもオクラと呼ばれており、ネバネバしてうまかった。

夜、ろうそくの灯りで漫画を読んでいると、外から綺麗なハーモニーが聞こえてきた。外に出ると10代の女の子二人がゴスペルを歌っていた。話しかけると教会で習った曲だという。アフリカではキリスト教が土着の信仰に取って代わられつつある。お寺で賛美歌を歌って良いものかという疑問は残りながらも、満天の星空を眺めながらその美しい歌声を聞くのは最高の気分だった。娯楽が何もない場所だからこそ、歌はその魅力を最大限に感じさせてくれた。

滞在3日目。森下さんは昨日帰ってこなかった。朝の勤行に参加していたのはせむしの若い男だけ。相変わらず彼の「何妙法蓮華経」は声に張りがあってよく響く。朝食は昨晩の残りの小魚とンシマ。

昼まで待ったが森下さんは帰ってこなかった。手紙と気持ちばかりの謝礼を置いて寺を後にした。アフリカに仏教を根付かせるのはさぞかし大変なことであるだろうに、老いを感じさせない森下さんの前向きな精神に感服した。強制するようにヨーロッパ人宣教師がアフリカに伝導したキリスト教とは違い、森下さんは教義を無理やり押し付けない。彼の仏心が少しずつでもアフリカの大地に染みこんでいくようにと願う。

首都ルサカに戻ろうと乗ったミニバスは、養鶏場に立ち寄った。乗せた客は30羽以上のニワトリだった。車内には動物臭が立ち込め、羽根は飛び散り、隣に座ったり、足元をくちばしで突かれたりで居心地は最低だった。アフリカ恐るべし。(旅はつづく・・・アフリカ縦断終了まであと65日)
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