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#04 人生を三倍速で生きた果て @中国・西安

2000年10月16日。

車内放送で「北国の春」のメロディが流れると、日本の東北新幹線に乗っているような錯覚を覚えた。実際には上海を前夜に出発した列車が、目的地の西安に近づいた合図だった。最低ランクの硬座に20時間揺られて、夕方5時過ぎにやっと古の都に辿り着いた。 

駅を出ると夕暮れの淡い光の中、街は排気ガスで煙っていた。肩が痛み、疲れてぐったりとしていたが、まずは寝床を確保しなければならない。ガイドブックに載っていた安宿、人民大夏公萬にバスで向かい、無事4人ドミトリー部屋を取った。共産主義的な合理性で、殺風景な白壁の四角い部屋にベッドが4つあるだけ。隣のベッドにいたアイルランド人の若い男性は、この後、日本に行って東京でナイト・クラビングして、築地で寿司を食べる予定だと教えてくれた。事前にかなり下調べしているようだ。

宿の前にあるレストランで、素っ気ない味付けの海老卵チャーハンを夕飯に食べて、部屋に戻るとアイルランド人は姿を消し、代わりに牛乳瓶の底のような分厚い眼鏡をかけて、ボサッとした髪の年輩日本人男性がいた。今夜は彼との二人きりのようだ。どちらともなく話が始まると、同じ横浜出身ということが分かって打ち解けた。彼の話に引き込まれて、部屋の明かりを消した後も、ベッドに仰向けに寝ながら夜更けまで話し込んだ。

今49歳だというおじさんは26歳の時、学生運動に行き詰まってフランスへ渡った。大学で数学を学んでいたが途中で退学。ヨーロッパ、アジア各地で働いては移動を繰り返してそのまま現在に至ったのだという。その間一度も日本には帰っていないので、話し方も日本社会で長年揉まれて身につける歳相応のものとは異なり、日本から出た年齢のままに時間が止まったかのような若々しさを感じた。

彼は「若いうちにやりたいことをやりすぎないほうがいいよ」と旅を始めたばかりの自分に冷水を浴びせるようなセリフを言い放った。「僕は読みたい本は全部読んだ。見たい映画も全部見た。行きたいところにも全部行った。学びたいことは全部学んだ。だからもうやりたいことは何も残っていないんだ。人の三倍は忙しく行動してきたから多分百歳の人と同じ気持ちだろうな」。

一応北京に向かって旅をしているのだが、北京に目的がある訳でもなく、旅するには目的地が必要だから取りあえず決めただけだという。日本に帰るつもりはなく、「北京に着いたらどうしよう?」と真剣に悩んでみせる。観光客がまず訪れない、小さな町から町へと小刻みに移動していく旅。中国では外国人が泊まれる宿というのは限定されていて、それ以外の宿では頼みこんでも普通断られるのだが、彼は中国語が流暢だから問題ないそうだ。

中国語だけでなく5ヶ国語を操り、門外漢の僕にも黄金比など数学から量子物理学のまでを分かりやすく説明してくれて、質問にも淀みなく答えられる膨大な知識を持っている。これほどの経験と知性を持った人にはなかなか出会えない。頭脳明晰ぶりに圧倒されながらも、それ故にやりたいことが無くなってしまうなら、頭が良すぎるのも問題だと心の中で密かに思った。

「自分の生き方を後悔していますか?」という愚直な問いに、イングリッド・バーグマンが80歳の時に受けたインタビューのセリフ「やったことを後悔していない。やらなかったことを後悔している。」を引き合いに出して、「彼女のように言えればいいんだけど簡単には答えられないなあ」と正直に答えてくれた。サラリーマン生活とは対極の自由な生き方。やりたいことが無くなる日がいつか自分にも来るのだろうか?人生でやりたいことから先にやろうと今回の世界一周の旅を決意したこともあり、彼の結論には考えさせられてしまった。

翌朝起きると白い部屋に一人残されていた。すでに彼は次の町へと出発してしまった。日本で普通に生活していたら、こんな風変わりな人の話を聞くことはない。これもまさに旅の醍醐味である。この先にどんな人々との出会いが待っているのだろうかと旅への期待が高まった。


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