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#09 6年振りに旧友を突然訪ねる @ネパール・カトマンドゥ

2000年11月10日。

チベットからヒマラヤ山脈を越えてネパールの友達を訪ねることは、この旅を計画したときに、実現したい夢の一つだった。

大学卒業後、首都カトマンドゥ郊外で半年間、ボランティア教師として活動したことがあったのだ。昼間は子供たち相手に英語や算数を教えて、夕方は若者に日本語を教えた。住宅街の一角に住処を得て、同い年の日本人青年と二人で共同生活。仕事の帰り道に道端で野菜を買い、自炊する毎日。初めての海外生活で、異なる習慣に戸惑いながらも、二人で困難を乗り越え、喜びを分かち合った。

ネパール人はシャイだけど、センチメンタルで友情に厚い印象が記憶に刻まれている。滞在を通じてネパールを大好きになり、第二の故郷のように感じていた。 ネパール人は肌の色が濃く小顔で、顔立ちがはっきりしているので、日本人のさっぱり顔とはかけ離れているが、自分も日焼けすると、外国人からネパール人か?と間違われる濃い顔立ちなので、親近感を覚える。

チベットからネパールに入ると、車道は右車線から左車線へ変わり、日本との時差も1時間から一気に3時間15分へと伸びた。旅を共にしたオランダ人夫婦と別れて、バスでカトマンドゥを目指した。色鮮やかなサリーを身に纏う女たち、木陰でお喋りする働かない男たち、遊び回る裸の子供たち、歩き回る水牛や山羊などの家畜。懐かしい景色が車窓から飛び込んできて目が離せない。川では欧米人がラフティングやカヌーをしていた。秘境とも称されるチベットに比べて、ネパールは訪問しやすい人気の観光立国だ。

寒かった昨日のチベットと1日しか違わないのに気候は激変。暑くなって、Tシャツ一枚になった。通り過ぎる町は次第に大きく、賑やかになっていき、19時半首都カトマンドゥに到着した。

カトマンドゥは盆地なので空気の逃げ場がなく、6年前も排気ガスによる大気汚染がひどかった。交通量が増大した結果、さらに汚染が悪化して街は煙っているようだった。観光客向けのホテルやレストランが密集する王宮近くのタメル地区に宿を取り、日本食レストランで親子丼を堪能。懐かしの地に、無事到着した安堵感も相まって、ネパールの蒸留酒ロキシーでほろ酔い気分になった。

翌日、早速一人でタクシーに乗り、お世話になった大家さん家族宅へ向かった。車を降りて、昔何度も通った未舗装の路地を歩いていると、懐かしさと同時に、みんな元気か心配になってドキドキしてきた。家の鉄扉を開けると、大家さんの娘と息子が以前と変わらない笑顔で迎えてくれた。大家さんも現れて、両手を合わせて「ナマステ!」とご挨拶。応接間でチャイとお菓子をいただきながら談笑した。西安から出した手紙はたったの2日前に着いたそうで、ギリギリ間に合って良かった。家族みんな変わりなく元気で嬉しかった。

屋上に上がって家の周囲の景色を見渡し、大通りから届くクラクションの喧騒を聞きながら、空気を胸いっぱいに吸い込んで懐かしい匂いを味わった。このあたりも交通量が増えて野良牛が排除されたと聞いて残念に思った。

夕飯を誘われて家族の男性たちと一緒に、ネパールの定番ご飯ダルバートをいただいた。山盛りの白飯、青菜炒め、ジャガイモのタルカリ(カレー味の惣菜)、ダル(ひき割り豆)スープ。ネパールでは伝統的に台所で膝立ちの姿勢になり、お喋りせずに静かに右手を使って食べる。男性が先で食べるのが、彼らの習慣である。前に滞在した時、台所では食べたことが無かったので、少し彼らの傍に近づいたようで嬉しかった。

2日後には夜空の下、屋上に絨毯を敷き、階下に住む2家族も合流して晩餐会を開いてくれた。蒸留酒ロキシー、数種類のタルカリ、アチャール(カレー味のピクルス)、ダルスープ、豆の煮物、水牛の肉、鶏肉、そしてデザートにライスプディング。こんな贅沢なネパール料理は初めて。大盤振る舞いしてくれた大家さんの心意気に感動した。

清流の村に、旧友を不意打ち訪問

数日後、バスを乗り継ぎ1時間かけて、カトマンドゥ盆地の裾野に位置する小さな農村スンダリジャールへ向かった。スンダリジャールは美しい水という意味で、その名の通りヒマラヤ山脈から流れて落ちてくるバグマティ川上流の美しい流れのほとりにある。

ここに旧友のディパックという青年が住んでいる、はずだ。連絡手段がないので、来ることを伝えておらず、彼に会える保証はなかった。道中のバスの中、彼と最初に出会った頃のことを思い出していた。仲良くなり、一緒に並んで町を歩いていたら、さり気なく手を握られて、「もしかしてこの人ゲイなのか?!」と困惑してドギマギしたことがあった。後から分かったのは、ネパールやインドでは男友達同士が手を握りながら歩くことは、友情の証であり普通のことだったのだけど。  僕らは当時、一緒にギターを弾きながら、ネパール、日本、英語の曲を歌って楽しい時間を過ごした仲だった。

彼の実家には何度もお邪魔したことがあったので、すぐに見つかった。「ナマステー」と声をかけると、お父さんが迎えてくれた。縁側で蜜柑をいただきながら片言のネパール語と英語を交えて話すと、ディパックは友達と山へ遊びにいったとのこと。

従兄弟の少年に案内してもらい山道を登ると、旧友は冷たい川で泳いでいた。突然現れた6年ぶりの旧友に驚いた様子だったが、両手を広げ、濡れた体で僕を抱きしめてくれた。 

眺めのいい大きな石の上に座り、お互いの6年間に起こったことを話し合った。彼は3年前にお見合い結婚して、最近子供が生まれたばかりだった。お嫁さんは子供と一緒に、実家へ帰省中とのこと。

以前一緒だったときはお互い独身の若者という同じ立場で、好きな女の子との恋愛話で盛り上がったのに、今回は気ままに一人旅をする自由な自分と、好む好まざるに関わらず親の意向で家庭を持つに至ったディパックとの住む世界の違いをまざまざと感じた。

ネパールではインドと同様、カーストがあるために、自由恋愛は許されず、親同士の決めるお見合い結婚がまだ一般的だ。日本なら、どうやって出会ったの?とか彼女のどこが好きなの?とかいつ結婚しようと決めたの?などいくらでも話は盛り上がるはずなのに、親が決めた結婚については何を聞いていいのか分からない。異なる文化と異なる境遇の狭間で、戸惑って口籠ってしまった。

再会して改めて思い出したのだが、ディパックは英語があまり得意ではなかった。お互いに話したいことは沢山あるのに、込み入った話が出来ず、沈黙が続くのがもどかしかった。気持ちは通じ合っていると信じたいが、言葉の壁が立ちはだかっていることは否めず、思いが伝わりきらないことに寂しさを覚えた。 

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夕方、黒い飼い犬と散歩に出て、山の中腹の眺めのいい場所に座り、夕暮れの中、僕らは昔のように歌った。憂いのあるネパールの有名なラブソング「マヤ・メリ・マヤ」、日本語を教えたときの課題曲、坂本九の「上を向いて歩こう」などの懐かしいメロディが蘇った。音楽は偉大だ。言葉が通じなくても、心は通じ合える。6年前の楽しかった時間が突如として再現された。再会当初、感じていたディパックとの距離が、ぐっと縮まって、やはり会いに来て良かったと感じた。犬も静かに側に座って、僕らの歌を聞いていた。

青菜と豆のダルバートを夕食にいただいた後、天の川の横たわる星空の下、屋上に登ってお喋り。村は雑穀の収穫が終わり、これから麦を植える準備が始まる。村の景色は日本の田園風景そのもので眺めていると落ち着いた。

翌朝、朝食をいただき、お暇する時間となった。別れを告げると、お父さんが「また来い、ここに住めばいい」と言ってくれた。きっと住むことはないだろう。でも、その歓迎の気持ちを有難く受け取り、美しい水の流れる村を後にした。

 

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