憧れる、が、むずかしい。

「憧れる」という感覚を、あまりよく理解できないでいる。
他の誰かに対して、「すごい」と思うことは多々あれど、そのことがその誰かになりたいという願いを呼び起こすことはない。これまでも無かった。

前提として、その憧れの人は自分ではない、ということに最大の価値があるはずでは?と思うのです。憧れの人と同じスペックや能力を身に着けるというのは、自分が尊敬できる対象を自ら葬り去ることと等しくて、そんなことをしてまでその人になりたいとは全然思えないのです。

自分は憧れの人ではない(し、なることもできない)という事実は悲観すべきことではなくて、むしろそうであるからこそ敬意を払い続けることができる。反対に自分があの人と近づけば近づくだけ、自分自身に向けている感情をあの人にも向けることになる。「なんで私はこんな人間なのだろう」と吐き捨てながら、また別の憧れを見つけて近づいていく。

憧れを手に入れれば万事ハッピーなんてことはあり得なくて、そう思えているとするならばそれは憧れがまだ自分の手の中にないからだ。自分にないものに憧れるのが人間なら、憧れを手中に収めてしばらくすればまた必ず別の憧れを追い求める。その時にはもう、かつての憧れは自分という塊に飲み込まれてしまっている。

私は、自分と憧れの間に引かれた境界線を、守り抜きたいのかもしれない。前向きなのか臆病なのか斜に構えているのかよくわからない着地をしてしまったけど、こんな感じだからいつまで経っても憧れの一つも持てない人生なんだということはよくよく自覚しています。

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