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「グロさ」の認識と自己という「重力」

ドロドロとして濁っていて、ぐつぐつぐつぐつ煮えたぎっている。
これは感情だ。嫉妬、怒り、憎悪が混ざったマグマのような感情。

今まで、「いい言葉を使いましょう」「感謝をしましょう」
「どんなに辛くても笑顔でいましょう」と言われ続けてきました。

リアルタイムで感じた感情ではなく、意識的な方法によって素直な感覚を抑え込んできました。

たくさんの動画を見ました、多くの本を読みました、数々の発信をメモしました。でも、僕が得た情報はどれも「グロさをもっと見つめよう」と言うものはありませんでした。

物事は陰陽で、熱いがあれば冷たいがあるように表裏一体だそうです。
これは自分が望む望まないに限らず「法則」として設定されているものだから、変えるとか変えないとかの話じゃない。できるのはその法則を知って自分に当てはめていくことだけ。

言葉はすごいですよね。
でもとっても扱いにくいものでもあります。

意味を知らずとも、経験することがなくても使えてしまうのが言葉。
全く興味がなくても、読めてしまえば記憶することができます。
経験には体験が不可欠でそれは体で感じることが必須です。自分が感じた感覚よりも調べて得た情報を優先するのが現代です。

そして不自然に綺麗であろうとするのが現代です。
言葉も綺麗である方がいいと言われ、それは人生にも当てはめられます。
直接言わなくても空気がそれを、社会がそれを強要している。

「常識」と同じくらい「綺麗」と言うものもまた、意図によって作られたデザインの世界です。

不自然に舗装された道路で身体感覚は狂い、便利と思って作られたものは体を不自由にする。意図によって修正されたものにより世界は作られています。

自然を見て美しいと感じるのはなぜなのか。
舗装された街並みを見ても心が動かないのはなぜなのか。
自然体とは一体どのような状態なのか。
美しさとはなんなのか。

僕は自分のことを醜さのない綺麗で真面目な人間だと思い込んでました。相談には正論で返し、うまくいかなければ、そういう生き方をしているから悪いと平気で思っていました。自分はお手本で、何も間違いなく生きている、と道から逸れているように感じる人に対して潔癖でした。舗装された道路のように意図によってデザインされた不自然な美しさです。

だからこそ腹の奥底にあるドロドロとして汚く、ぐつぐつ煮えたぎっている、怒りや憎悪、自分という人間のグロさの源泉を知ることがたまらなく苦痛でした。白だと思っていた自分を一気に染め上げるかのように、認識した瞬間から感情が噴き出しました。

父親への怒り、会社に対する不満、人生に対する焦燥、直視したくない自分という人間の本質。
こういったものは、恋人や母親を通して強烈な怒り、衝動という形でコミュニケーションに強く影響していました。

どうしてこんなに自分を嫌な気持ちにさせるのだろう。
話すほど自分が嫌な奴に見えて苦しい。
本当の俺はこんな醜いやつじゃない。
と否定し、距離を置き、他のことに没頭することで逃げまくりました。

ですがこれは「相手」はキッカケでしかなく、相手を通して自分が感じた「感情」そのものが重要だったんです。

「人」は自分に感情を伝えるためのツールでその人そのものは関係ない。
人を通して得られた感情に意識を向けることが本筋でした。

本質は「人」ではなくその人を通して得た「感情」

今までは「感情」ではなく「人」への批判、粗探しにエネルギーを使っていました。
ですが人そのものは「虚像」でした。

そんな観察を繰り返していたら、右半身に重さを感じました。
僕にとっての陰的な要素は右半身にあるらしく、集中するほどに質感を伴って感じられるようになりました。

観察し、馴染んでくるとその質感、重さが「自分らしいな」と感じるようになりました。綺麗な言葉や高尚な思想はふわふわ浮いているけれど、醜さやグロさは確かにそこにあって地に足がつくような安心感を与えてくれました。

不思議ですが観察するほど、自分のグロさが好きになって、面白くなってきたんです。
グロさとは人間性で、濃縮された個性で、その人をその人たらしめる重要な要素ではないかと思います。

地球には重力があります。グロさにも重力があると思います。グロさを認識できれば自分自身に重力が発生してより自分らしくなるのではと思います。

性への異常な潔癖的思想にも醜さとの関係が深いと思います。

僕にとって性行為とはある意味コンプレックスのぶつけ合いのようなもので、その人の一番醜い部分が出てくる行為だと思います。

日々抱えているコンプレックスや不満などの感情が性行為という形で表現される。
命が育まれる行為であると同時に、向き合いたくない自分の弱さを、生まれたままという何も隠せない姿でありながら、本心を誤魔化すように快楽によって清算しようとする。

ありのままにグロさを認識してそれを認められることはとても美しい。
自分の中にある濃縮されたグロさ、醜さは強烈にその人の命を表現している気がします。欲望であり熱量、命が輝くために必須になる大事な自分。

生命の輝きとは、綺麗に清廉潔白に、誰もが羨むそんなものではなくて、強烈な一個人の濃縮されたグロさではないでしょうか。だからこそ定義づけされず、自由で清々しく、どこか儚い。

人間的な魅力がある人はどこかそういうグロさが滲み出ていたり普段の振る舞いからそうであったりする方が多いのかもしれません。

清廉潔白なんてクソ喰らえ。グロさこそ個人の原点であり魂の形です。
自分らしく生きるため、僕は自分のグロさを探究し続けます。

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