拝啓、深淵なる「私」
生きたい人生を生きると決めて、少しずつできることが増えてきた。
逃げてきたこと、新しく取り組むこと、自分の中に蓄積されてきた経験という名のあらゆる観念を、ダイジェストで視聴するように振り返っている。
その中には物心ついたときに閉じてしまった無垢なる感性や、自己を守るために造った鎧など、その形態は様々だ。
そういった、一見壁とも思える超えるべき自分に気づくたびに、これもまた大切な自分なのだと己を洞察するたびに深く浸透していく。
新しい自分を発見したのではなく、これが本来の私だったのだ。
不足ばかり目について、不足を補うためにばかり生きてきた。
何か手に入れても、達成しても次の瞬間には足りないところに目が映る。
新しく何かを身につけなければ生きてはいけない。
新しく刺激的なものを持っていなければ誰からも愛されない。
理解されたい寂しさを、知識で埋めるように誤魔化し続けてきた人生だった。
キリがない不足の螺旋に終止符を打ったのは「既に備わっている」とする深い慈悲のような感覚だった。
新しく何かを身につけると言うことが好きではなかった。
「あなたには欠落しているものがあるから補いなさい」と暗に言われている気がしていたから。
でも、自分の不足も、寂しいと思う気持ちも、豊かで情緒的な感性も
欠落している、欠点とされているところも含めて、自分という人間に必要な要素ではないか。
新しいと思うことでさえも本来備わっていたもので、経験を通して気づくことができたに過ぎないのではと至った先に、深い愛情のようなものを胸に感じた。
「足りないこと」すらも「足りている」のかと。
肉体という器を介して世界という器に接続している。
この目に映る景色は自分に何を伝えるのか。
それを通して何に気づかせようとしているのか。
心のアンテナに従って手に取る経験は、いつだって存在の深いところの鐘を鳴らしてくれる。
良いものも、そうでないものも。
全てがかけがえのないものであるとこの一瞬でも感じられたなら、それはきっと幸せなことなのだと思う。