小さな掌
鬱っぽいものが抜けて、受け取るものへの「偏見」が少し取れたことで気づけたことがある。
それは、自分はとても「小さい」ということだ。
前に「学問というのは驕り高ぶるためではなく自分の小ささを知るためにあるもの」という話を聞いたことがあって、これがそういうことなのかなぁって思ってる。
しんどい時期を抜けて冷静になった時にある知り合いが頭に出てきた。
それを見ていたら「あれ?俺って思っている以上に薄くて小さくないか?」となったという話だ。
どういう領域で大きい小さいを測るのかによるが、とにかく小さいのだ。
人として〜なのか
現実的に〜なのか
精神的肉体的に〜なのか
なんというか、死なないために、自分がこれ以上傷つかないために逃げ続けてきたようなことを、正面から受け止めて、自分なりに対処してきた、みたいな感じの差というか「うわぁ〜すごいわこれ」という感じなのだ。
当たり前に話をしたり、同じ空間にいることで「対等」であるという思い込みがあったが、こと精神という領域においてはとてつもない差があるのではということを肌で感じてしまった。人間力とかそういう話なのだろうか。
むしろ色々現実的にも精神的にも変化し続けている自負がある自分の方が上だとさえ思っていたくらいなのに。
そういうちゃちな領域の話じゃなかった。
家庭の水槽か海かくらいの違いで、僕が見ていた視野より遥かに広く、深い視座でその人は自分とこの世界というものを捉えていたのだという感覚があった。
木をみて森をみずじゃないが、僕は木よりも更に細かい枝とか、葉っぱとか、一本の木に生えてるものしか見れてなかったがその人は森の視点で受け取って行動していたようなそんな感じ。
力の差がありすぎることで相手の力量を測れないみたいな描写が漫画にはよくあるが、そんな感じ。
竹内晶貴という尺度では収められないくらい大きいものであるという気づきが、身体を通して突き刺さってきたのだ。
自身の小ささというものを学問でなく、コミュニケーションと自分に向き合うという作業で得られたという感じだ。
自分より遥かに大きい存在を知覚したことで自分がやっていることの意義みたいなものが根底から揺さぶられるような感覚になって眩暈がした。
でも以前みたいな絶望感とかはなくて、ただただ「全然たりてなかったわ」という事実だけがそこに残っている。
ようやくここに気づけたというか、もう気づいても良いというか。
途方もない、こんなの追いつけるのか?と思うほどであるが、その方が性に合っているとも思う。
追いかけられるより追いかける方がきっと向いているのだ。
今までとパターンを変えたことで入ってくる情報の質が変わった。
拒否される怖さとか、失うかもしれない可能性とか、自分を死に近づけるような体験を潜在意識と手を組んで命をかけて阻止してきたこの僕が、ここにあえて意識的に手を出すという挑戦。
もう死なないということが深いところで理解されてるからこそできる行動だと思うと、今までやってきたことは無駄じゃなかったと嬉しくなった。
自分の基本的な性質を知るために星座の発信をよく見ている。
僕は蠍座なのだが今まではその中で出てくる内容にただ共感して頷いて終わりだった。
愛情が深いだの、失うのが怖いから恋愛怖いだの
物事の本質を見抜くだの、確かにと思うような内容がほぼだった。
でも、せっかくこういう仕事をしていて、こういうことを考えるのが好きなら、
「更に向こうへ」行きたいと強く願うようになった。
自分を使いこなすとは、その特性を全て理解した上で統合し、人生の中で使って磨きながら、新しい可能性へと進化させることなのではないだろうか?
物事の本質を見抜くからじゃあなんなのか?
見抜いた先に何をするのかしたいのか?なんのためにこの力を使うのか?
失うことが怖くて次に進めない?
仮に失うことになっても、その時が来るまでは持ち味である愛情深さを発揮して、かけがえのない時間を過ごすためにどうするか考える、とか。
確かに、生まれた要素は人生の多くを占めるし、ある程度のストーリーもある。
しかし、生まれてから死ぬまでの間はその多くが生きてる俺自身の選択と工夫次第でいくらでも変えられるはずなんだ。
生まれる前の記憶がどうして消えてるのか考えたことがある。
それは忘れてた方が自由自在に組み立てられるから、知ってるより可能性は無限大だぞ、という世界からの粋な図らいなんじゃないのか?
俺は覚えてなくてよかったと思ってるぜ。
知ってたらそれに囚われてもっと可能性を狭めてたかもしれないからな。
無知は罪だというが、無知を力に変えられるのもまた俺の工夫次第だ。
持ってるカードで戦うしかないが、持ってないからこそ強みになることも大いにある。
全知全能ではない、大事なことは全て無意識にあるからこそ、ほとんど忘れてるその意識という日常に、どれだけ色濃いものを残せるのかは自分次第だということだ。
無知で何も覚えてないなら、今の俺が全部決めて行けるところまで行ってみる。
きっとそういう想いに身体や魂は応えてくれると思う。
そんなことを考えていたら↓の曲を思い出しました。
「しゃがみ込む背中をさすってくれたのは、同じ傷を持っていた未来の自分自身でした。」
「その背中はまだ頼りなさが残っていますが、それでも僕は嬉しかった」
「一人ではある、けれど独りには決してしないと。」
「どんなに綺麗に飾られた言葉よりも、その温もりに救われていたのです。」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?