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花開け感性

今まで「竹内晶貴」としての部分が本当に肯定できなくて、存在価値という概念が存在しないことが当たり前だったわけだけど、ここ半年で少しずつ変わってきてた。

色々なことがあって、人間としての自分を育ててる最中気づいたことがある。

サイキック整体としての自分は「人の役に立てる」から発信していることや考えていることが多少「変」でも良いんだけど、ベースにある「人間として」の部分があまりにも変わっていると、そんなに褒められるもんじゃあないんだなと感じてて「当時は閉じてて正解だったなごめんな俺」ってようやく腑に落ちてきた。

好かれる好かれないという話ではなく、受け入れられるられないの領域なのかと思ってて、本当に、本当に、見たり聞いたりしてる景色が違うんだなというのを痛感させられている。

施術時の感覚を日常でもできるように練習していることで、今までより広く、遠くを感じられるようになった。

全身でこの世界に存在しているという認識で、感覚を用いて生活した時に、ただただ事実としての「違い」のようなものを物体的な感覚で認識することができた。

あぁ、そうか。
これが「違う」ってことなんだ。

感情が乗っかった「違う」ではなく、犬と猫は「違う」というのと同じ感覚の「違う」ということかと。

「孤独」とか「孤高」とか、そういう、感情的な比較の表現ではなく、
ただ無機質に、そこに存在する事実として「違う」ということが観測されている。

今までよりも多くのものが消化されたり削ぎ落とされたりして、より自然な視点で自分というものを意識できるようになっている気がする。

同じ人間だけど「違うんだ」みたいな。
そりゃあそうなんだけど、「違う」んだ。

苦しくはない。悲しみも葛藤もない。

やっぱり俺は俺の世界観を余すことなく出すことで、理解って欲しかったんだな。

でもこれを「人間としての俺」でやるのは多分違くて、
「サイキック整体としての俺」でやるものなんだわ。

人間としての俺はきっとそんなに受け入れられてないというか、馴染みがないんだと思う。

施術は表現だし、仕事でもあるし、実際に役に立てるものだから、そういう意味での「価値」があって、そこでの繋がりが生まれる。

だから施術を通して得られる繋がりはちゃんと社会に根ざしているような、そういう雰囲気がある。

でも人間としての俺になるとどうだろうか?
ただただ俺。役に立つとかそういう「提供する価値」により生まれる繋がりではない。

俺という人間が持つ感覚や世界観はこの世界にとって価値があるかどうかはわからない。

じゃあ仮になかったとしても、ここはそうそう変えられないわけだ。
ここをあまりにもオープンにして、ここを理解って貰おうとしたことでうまくいかないことがたくさんあったから閉じたんだ。

きっとここはそんなに表に出すものじゃないんだと思う。
でも繋がりとかふれあいってこういうところでの共感が生むんじゃないの?って無意識レベルで思ってる。

そういうところから多分「違う」んだと思う。

そうなると、俺はめっちゃ頑張ってたんだなって思った。
すごい偉いなって思った。

あ〜なるほどなぁ
これは多分無理なんだw w w

ありのままの感覚でやり取りすることがほぼ無理で「施術」という橋を掛ければそれは「個性」になって関係性が生まれる。

良いとか悪いとか、努力がどうだとかそういうものじゃなくて、「仕様」というかそういう原理的な、核に近いところでの話な気がする。

今の俺が見ているもの、見たいもの、目指しているもの、理想像。
どうやったって一人にはなる。

ここと感情と過去のトラウマなどが複雑に絡み合って色々な形になって出てきていて、社会性を保つ上で必要になる共感やその他の興味関心に関わる感覚全て。

本当の、奥底の、竹内晶貴という「個人」の底はもっとこう自然体?フラット?無機質?・・無機質が一番近いかも。

傷つきたくないから感じないというより、ただただ共感できないから感じないみたいな、そういう側面もある。

自分というものを色眼鏡なしに深掘りしていくと、人と関わるなんてことはできないんだろうなと思う。どうしても「想いやってる風」だし「共感してる風」にもなる。

土台とか構造とか、原理原則が一番好き。
無駄がなく、均衡が取れてて、感情的に無駄だと感じるところすらも全て調和のための一場面であると。

一芸特化。
自分の満足とか好奇心、知りたい気になるという欲求を満たすためにとにかく自己を掘り進めていく。

そういう土台の上に「性格」や「環境」などの後天的に育まれるものが乗っかる。

あ〜、前言われたのはそういうことか
魂にどんどん近づいているという話。

俺のこの掘っていく感覚がまさに「魂に近づく」というものなんだ。
人格的な乖離のようなものは深掘るほど近づく魂と、生まれてから培ってきた感情的体験のギャップのようなものだったのかも。

ただ体験としてというか、味気なくなるし俺自身もそういう「色のある自分」というものに魅力を感じていたから持っていたというだけで、ここの区別ができるようになればもっとハッキリと分けていくことができるのではと思う。

人と接する時に出ていた「無機質な自分」と「感情的な自分」
奥底では「仕組み的な」俯瞰した視野があり
表層では「相手を思いやり」今の相手に共感し伝わるような意思があった。

俺個人としてはどう思うかと相手に伝える上ではどうかというこの2つの選択肢が混ざっていたことが「ズレ」に繋がっていたのだと思う。

「孤高」が独立し、脇目もふらず突き進む許可を与えられたことで生まれた感覚。

そうだ、俺はもうすでに魂に近づくという行為を意図して行うことができている。

その上に乗っかる価値観や感情や環境諸々も俯瞰して捉えることができている。

一番好きなことは「原理原則」を捉え、それを余すことなく使って生きていくことだ。

ここを明確にできたことではっきりと見え始めている。

魂とは原理原則とは、仕組みや構造は、ただそれを全うするだけであって、感情も何もない。無機質なものだ。ただただ回り続ける歯車のようなものだ。

この無機質感を俺は感じていて、そこと感情面とのギャップでズレが生じていたんだ。

もっと熟成させよう、より育てていこう。
この6月で俺はもっと自分を開花させていく。

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