教育の現場は、すでに瓦解している?

(是非とも、みなさんの意見を聞かせて下さい)

2つのニュース

2つのニュースが報道された。

・神戸市・東須磨小学校で教員いじめ

・奈良県大和郡山市立郡山南小学校 教諭4人が一斉休職

ボクもはしくれではあるけれども、教育に携わる一人。ただ、ボクがこの2つのニュースを読んだ時に感じたのは、

「日本の教育は終わった」

ということだった。

特に、神戸のニュースはボクなりの憤りがある。でも、憤ればいいってもんでもない。「教育」という現場に足を踏み入れている以上、世間が騒ぐ以上に、深く考え込んでしまうのだ。

確かに、教育現場は何とも不思議な環境である。

「教育」を目指す人

「教育」を志す場合、だいたいは大学の教育学部、または教職課程を修了し、教員免許を手にできるよう努力する。そして、そのまま学校であれ、塾であれ、「先生」と言われる職業に就く。

大学を卒業したばかりの社会の右も左も分からない若造が、自分よりも年上である保護者から「先生」と言われて、へこへこされるのだ。「自分が偉い」と錯覚してしまうことは少なくない。そう、簡単に言えば、「実力も無いくせにプライドだけ高い」人間になるのだ。

そして、だ。だいたい「教育業」に就く人間は、強制的であれ、自発的であれ「真面目で模範的」を体現してきたのが多い(私の予想では、強制的にそうさせられたようにも思う)。勉強ができ、それなりに結果を出してここまで大人になった(なってしまった)。幼いときは、失敗しても許される期間であるのに、それをせずにここまで来てしまった。それがプライドの高さを助長しているのだ。

ある程度うまくいく人生を生きてきてしまい、社会を知らないまま「先生」になってしまった若者。現在は、それが蔓延る。そういう人間たちで、教育が行われているのである。

もとをただせば、原因は大学にもあるように思う。極論を言ってしまえば、大学なんて、そんなに多くなくていいのだ。本当に学問を究めたくて、本当に優秀な人だけが行けばいい。現在のような、「社会に出るまでの猶予期間」の状態では行けないと思う。そして、だ。私立の大学も生き残らないといけないから、アレコレ手を尽くして、受験生を囲い込もうとする。本来、大学に行かなくていいような若者が、その私立大学の維持費のためだけに入学出来てしまう現状がここにある。ただ、そうしたおおもとの原因については、社会学的観点でまた別に突っ込んでみようと思う。

やっぱり妙

話題がずれてしまった。話を戻そう。

改めて言っておきたい。「教育職」に就く人間は、「ちょっと妙」だと。

ボクはその中で、異質人間だと思う。ボクの家系は、教育職に就いた人まみれ。教育現場の汚れた話も小学生のうちから何回も聞いてきた。その分、それなりの現実も知っていた。「学校なんて中小企業に過ぎない」とは何度も聞いたこと。大学生のときには、教育実習に行く前から、小中学校の現場を見ていた。職員室の様子も、会話も聞いていた。だから何となく、その頃から「瓦解の不安」はどことなくあった。

学校は閉鎖的だ。そりゃそうだ。プライドの高い人間が、未熟な子どもたちを「支配」しているのだから。「プライドが高い」=「傷つきたくない」である。守りに入る。排他的になる。都合の悪いことは言わない。こんな感じだ。

「人間なんて、いくつになったって未熟なんだから、自らの至らないところを反省して、次に進めや」っていいたくなるけれど、それをプライドが許さない。ボクの塾にもそういう人間はいる。そういう人間に提案するとなれば、「提案」とは理解してくれず、「自分の考えに不満を持った奴」と思われてしまい、謎の敵意を持たれる。コミュニケーション力がないのだ。「目の前のやつは、どんな意図で意見を言っているのか」つまり、裏を読む力が非常に足りない。まぁ、いい言い方をするなら「直情的」、悪い言い方をするなら「世間知らず」だ。話は進展しない、いいアイデアも形になることはない、現状維持どころか退歩だ。いつまで「自分が可愛い」をやっているのだろうか。いつまで、「子どものまま」でいようするのか。

弱弱しい「優位」の誇示

教員はプライドの生きもの。だから、その集団の中で「優位」を探す。これは教職に限ったことではないのだろう。どんな集団であれ、優位でいたいもの、いい気分で仕事をしたいもの。

でも、それは日々の見えない努力があってこそ。「優位」に立つには、周り以上の努力をして初めて成しうる。

しかし、そんな思慮すらない。「自分より、あいつは下だからバカにしていいや」。これはどの職種にもある。というか、幼稚園くらいからある。普通は、それをわかるようにはしない。ちょっとした一挙手一投足で若干感じさせるくらいに限る。

しかし、だ。教員は、そういうことも出来ない。アホである。

「そんなことしていいわけがないだろ?」

そんなことすらもわからなくなっているのである。

誰からも責められない=自分の全てが正しい

なぞの式だ。しかし、こうした心理は、教員には絶対にある。少なくとも、大卒で教員になったのには多い。ボクにもあるのかもしれない。

「子どもたちのためだから」

そして、教員の仕事は「子どもたちのためだから」という悪魔の言葉がある。この言葉を言うと、どんな教員も、心身を消耗するとわかっている業務にも進んで向かって行ってしまう。

正直に言っておく。「子どもたちのためだから」という仕事に「子どもたちのため」はない。むしろ、普段の無意識になってしまうようなところに、本当の「子どもたちのため」が存在する。「子ども」を無意識に、自己都合を正当化するように使っている。いわば、子どもの利用だ。でも、こんなの何十年も前からやっているのだろう。

人として妙な人間が教育現場に蔓延り、「子どもたちのためだから」という悪魔のささやきで、別の教員を苦しめる。そんな教員がベテランになってしまって、そんな指導をしてしまう。

子どもたちは、そんな教員から何を学ぶのだろうか?

本当に「無駄」は抑えられたのか?

私企業である塾は「利益追求」を第一とする。それが民間企業である。余計な支出はしない、人件費は抑える。無駄なく、稼げる方法を考える。

公立学校もそうなってきた。なんでもかんでも非正規教員を入れて、都合よくその場をしのいできた。担任がころころ変わるニュースは何年も前から続いている。そうして「無駄」を無くした。

塾も学校も、本当に正しい方向に進んでいるのだろうか?

相変わらず、お上が言うことに公教育は従い、それに付随するように塾は稼げるところを模索する。

本当は「無駄」と思えるところに、意味があるんじゃないか。抑える支出はそこじゃないんじゃないか。

でもまぁ、このまま少子化が続けば、いつかは「教育業」なんて無くなってしまう。無くなってしまうなら、このまま退廃的にいってしまったって構わない。どうせ、日本はいずれ終わるんだから。

政治家は、実はこんなことを考えていないだろうか。

このままいけば、間違いなくそういう日は来る。

もしかしたら、「教育」は既に瓦解し始めているのかもしれない。

はぁ、いつまでこの仕事に従事していこうか。何とも悩ましい最近である。