応援とは何か -村人と観光客-
「応援する」とは具体的に何をすることだろうか。
日本語の「応援する」からは様々な姿を想像することができる。
声を揃えて歌うこと、動きをそろえて演舞すること、「頑張れ」と声援を送ること、直接声をかけること、スタジアムに足を運ぶこと、物事がうまくいくように祈ること。
どれもが「応援している」状態であると解釈できる。英語にはそれぞれに適した表現があり、異なる。
では、今年の夏の甲子園で優勝した慶應義塾(以下:慶應)の「KEIO KEIO 陸の王者KEIO」の大合唱は”応援”だったのだろうか。
そして、その良し悪しは別としてあの熱狂はどのようにして生まれたのだろうか。日本のスポーツにおいてあの種の熱狂が生まれたことはそう多くない。
最近ではサッカーW杯、野球のWBC、バスケットボールの代表戦は多くの注目を集め、盛り上がりを見せたが、私がこの文章で定義する「熱狂」とは異なる状態である。その熱狂の構造と、それらが野球という競技に対してどのような影響を与えるかについて考えていきたい。
競技と国とファンカルチャー
前回のnoteでも述べたように”ファン”と”サポーター”は似て非なるものである。(図1)
チームはファンに対しエンターテイメントを提供し、ファンは対価を払う。一方でサポーターはクラブの一員であり、相互に矢印が向くことはない。
ファンとチームの関係性においては、ハーフタイムショーもスタジアムグルメも必要不可欠である。なぜならチームはファンを楽しませなければならないからである。
一方でサポーターとクラブでは、ハーフタイムショーもスタジアムグルメも必要ない。なぜならそこにはクラブがあるからだ。
日本の野球応援
野球の応援の形は様々であり、それぞれに特色を持つ。
吹奏楽団を中心とし、チアガール(ここではあえてチアリーディング部としなかった)が踊る甲子園。応援団が中心となる東京六大学。専用ステージが用意されている都市対抗野球。誰でもスタンドで応援ができるプロ野球。
日本においては”野球を観に行く(応援しに行く)”(外野席以外で)は”応援を観に行く”も内包されている。日本では野球応援が一つのエンターテイメントのショーとして完成している。甲子園や都市対抗野球などはショーとしての応援の最たる例だ。
応援している当事者達も”観せている”という自覚がある。吹奏楽部やチアリーディング部は一つの発表の場と捉えている。甲子園に関しては応援団の応援は集客の大半を担っているように感じる。
そんな”野球を観に行く”(応援する)ことを、「旅人」「観光客」「村人」の3つに分類した。
1、旅人的な応援
バックネット裏で一人で観ている人(野球に対する熱量は高い)や、家族連れ、友達や同僚に誘われてたまたま来た人、好きな女の子がチームのファンだからデートに設定した男。などはそのチームや選手を応援する熱量は決して高くない。
何となくどちらかを応援したほうが楽しめるからという理由で応援している。
ただ、それも野球である。むしろそれが日本の野球である。文化である。それで良いのである。
2、観光客的な応援
プロ野球ファンの大半がこれに当たる。
スタジアムに来るときや、ユニフォームを着ているときは日常とは別の共同体に属し、別の分人を生きることができる。
選手やチームのファンサービスを楽しみ、時には選手や監督の悪口を言い、勝利に歓喜し、敗北をビールで流し込む。
ただ、一切の責任を負うことはなく、試合が終わるとまた日常へ、別の共同体へと戻っていく。
3、村人的な応援
彼らは誰に促されることもなく声を出す。
心からこの私がこのクラブを勝たせようとしている。
相手選手がミスをすれば歓声が上がるし、ファール(サッカー)に対しては猛烈なアピールをする。そして責任を負おうとする。時にはそれが全てになる。
熱狂する。
野球という競技に求められる態度
私は競技によって、そして局面によって(守っているのか、打っているのか)、更には状況によって(リードか、ビハインドか)求められる態度は異なると考える。
例えば直接的個人闘争である格闘技において(図2)パフォーマンスを発揮し、生命的危機の状況に対する恐怖心を払拭するにはハイな状態にある必要がある。
個人競争であるゴルフなどは逆にハイな精神状態はプレーの邪魔をする。
では野球という間接的団体闘争に分類される競技はというと、基本的にはハイでもローでもないニュートラルな状態が理想的であると私は考える。
イチローや大谷翔平などの一流プレーヤーのプレー態度は、悔しさや喜びさえも態度に出すことなく常にニュートラルな状態に戻しているように窺える。
野球という競技の応援は、どうあるべきか。
野球という競技は規則的に攻守が入れ替わる。そして応援は攻撃側が行う。
そして最大の特徴は一般的なスポーツにおける攻撃の概念が当てはまらないことである。
野球においてボールコントロールをしているのは守備側である投手であり、投手というポジションは極めて競争に近い間接的闘争を行うポジションである。
そのことから求められるプレー態度はニュートラルかそれ以下である。
その投手を含めた守備側に対して影響を与えることを許されているのが“応援”である。
即ち、「野球における応援とは相手(守備側)に対し影響を与えることがデザインされていなければならない。」と言える。
一、攻撃側がチャンスの場合には、守備側にはピンチだと分からせること。
一、得点が入った際には難しい歌やリズムは用いることなく長さが調整できること。
一、ランナーがいない場合には上記の2つを引き立てるために上記以外の応援を用いること。
これらが応援の原則となる。
“村人的な応援”は何からできていて、なぜ日本には生息しないのか。
日本では村人的な応援の姿はほとんど見られない。が、しかし、ひょっとすると、今回の慶應の応援はそうだったのかもしれない。
日本で村人的な応援をする人がいないのには上記で述べたファン構造が関係していると私は考える。日本のほぼ全てのチームはアメリカベースボール型のファン構造をしている。どの競技も。
選手に対して、いつ何時も「頑張れ!」と言い、選手があってのファンであると自覚している。オレたちのクラブではない。
チームがファンのためにサービスをし、それに対してファンが対価を払うシステムからは村人的な応援は生まれない。
今回の慶應はチームからファンにもファンからチームにも矢印は向いておらず「オレたちの慶應」だった。
それがあの熱量を生んだのだと思う。
あの応援を見て、「応援歌の歌詞を知っているからだ」とか「OBが多いからだ」という声を目にしたが、歌詞を知っているだけであの熱量は生まれない。
結論は"慶應だったから"だ。これ以外にない。
動物には集団の自然な大きさには限度があり、約150を超えると群れや縄張りは分裂するそうだ。しかし、我々ホモ・サピエンスは違った。
これが"慶應だったから"という理由である。
会ったことも、話したこともない人同士があの熱狂を生むのには、思想、信念、主義、主張が必要不可欠であったのだ。
そして内部結束を高める上で外せないのが早稲田大学の存在だろう。慶應の誰もが、そして世の中の誰もが慶應の敵は早稲田だと認識している。
内部結束を高める上でこの存在は大きな役割を果たしているだろう。
これが熱狂の原材料である。
まとめ
今日から「今日の勝利はファンのみなさんの声援のお陰です」には注釈が必要になる。
どんな応援をするかも、どんな観戦の仕方をするかも自由であり、誰かに指図されるものではない。それが日本の野球文化であることはとても素晴らしいことだと思う。
ただ、本気で勝利を目指すのならば「応援」の力は間違いなくプレーに大きな影響を与える。
何となく耳当たりのいい流行のJ:POPを応援にしてみたり、他のチームの真似事をしていれば良い訳ではない。
そして、あの熱量を、熱狂を創りだすことが出来るのであれば、それはもう誰にも止めることはできない。
今回の慶應の応援に対してモラルやマナーを守るよう規制すべきだという意見も出ているようだが、規制するしない以前に、止めることはできないだろう。
菅野雅之
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