【読書録71】自分なりの正解をつくり出すための失敗のすすめ~畑村洋太郎「新失敗学」を読んで~
著者は、福島第一原発事故の政府事故調の委員長や日本航空の安全アドバイザリーグループメンバーの畑村洋太郎先生。
本書の書名にもなっている「失敗学」の提唱者である。
なぜ「失敗学」かという疑問
著者が唱える、「失敗学」とは、何か?
であるという。
一方、本書で書かれている内容は、「失敗学」という言葉から受ける印象を超えて、知的生産の技術、もっと言えばこれからの生き方について非常に有益なヒントを与えてくれているように感じる。
率直に言って、もっと違う言葉を使った方が良いのではないかという疑問を抱きながら読み進めた。
正解がいくつもある時代
副題は、「正解をつくる技術」。
本書の内容を一言でいうと、この副題に表されている。
VUCAの時代は、変化が激しく「正解が無い時代」と言われる。
著者は、「正解が無い時代」とは、正しくは、個人の価値観が多様化する中で「正解がいくつもある時代」のことであるという。
正解がいくつもある時代であるからこそ、「自ら考えて答えを出す」事が必要であり、著者は、それを「正解をつくる」と言っている。
自ら考えて答えを出すとは、自分なりの仮説を考えて、検証=実行する、この仮説⇒検証のサイクルをくりかえす中で、自らの正解にたどり着くことである。
仮説⇒検証のサイクルの中では、当然、失敗がつきものであり、その失敗から何を得て、次の仮説につなげていくかが「正解をつくる技術」の鍵なのである。
実行することの大切さ
「自分で考えて実行する」という中で、著者は、実行の大切さを訴える。
つまり、「頭でわかっていることと、実際にやること」には、大きな違いがあるということである。
自分で手を動かしてみて気づくことはたしかに多い。
出発点は、仮説
実行することの方が大切ということは、とにかく何も考えず動き回れば良いかというとそう言うわけではない。
仮説と実行は、セットなのである。以下のようにも言う。
現地・現物・現人の大切さ
仮説を立てる時に大切な事として、➀基本的な知識を頭に入れることと、➁「三現」主義を通じて立体的にものごとを捉えることを挙げる。
知識を頭に入れるとは、単に物事を知っていると言うことではなく、「モデル化」することが大切であるとしてこう言う。
そして、きちんとした知識・情報を取り入れるうえで、著者が非常に大切にしているのが「三現」主義である。
著者は、三現による知識の獲得は、五感をフルに使って観察対象と向き合うことになるので、メディア・ネットを通じて学ぶことより、はるかに立体的に多くのものを得ることができるという。
確かに、現地・現物・現人による知識の獲得は、心に深く刻まれ、忘れずらいという効用があると思う。
著者は、三現をやらずに知識を獲得するのは、他人の目や感じ方を頼りに対象を理解するようなもので、広い知識を効率的に得る方法として優れているが、結局は二次情報なので、考えのタネとしては浅く深みに欠けるとも言う。
この現地・現物・現人は、物事に処する時に基本となる考え方として重視していきたい。それらが持つ「空気感」、圧倒的な現実感からしか得られないことはたくさんある。
何のためにを問い続ける
本書の中で、一番衝撃を受けたのが、福島第一原発事故での大きな謎となっている、非常用発電機がなぜ地下にあったのかというエピソードである。
アメリカでは、いちばんの脅威が、「津波」ではなく「竜巻」だったから非常用発電機を高いところに置かず、地下に置いた。
日本では、アメリカから原発の技術が持ち込まれたときに、本質的な議論もなしに形だけの知識が伝わり、そのまま「地下」に置いたという。
このエピソードから、著者は、旧来型のパターン認識に優れた優等生の限界と、「ものごとの本質」を突き詰めて考えている別種の優秀な人財の有用性を説く。
著者の以下の指摘は、まさに日々の仕事や日本社会のあり方を考える上で、非常に重要で、今、我々に求められている一番大きなことでもあるように感じる。
今日の「正解」は明日の失敗のタネ
本書で著者は、日本のこの30年の低迷について言及している。高度成長期の成功の呪縛から逃れられない姿は、今までも数多くの本で指摘されていることである。
「動かないことが失敗になる時代が始まった」としてこう言う。
「失敗」という言葉を使う意義
本書で繰り返される通り、仮説と検証を繰り返す中で、「失敗」は、より良い正解にたどり着くために必要不可欠なものである。
一方で、著者が嘆くように、「失敗」に対する捉え方は、昔から変わらない。
著者は、失敗を「恥ずかしい」とか「かっこ悪い」と感じるのは、失敗をその人の能力と関連付けて考えているからだという。
たしかに企業の減点主義の人事評価、学業における正解を覚える勉強法などを考えるとそんな面があるのは否めない。
だからこそ、著者の知的生産の技法、これからの生き方の手法を「失敗学」として打ち出すことに意義があるように感じた。
「失敗」という言葉から受ける印象を変えるためにも、あえて「失敗学」と銘打っていると受け止めた。
仮説と検証(実行)を繰り返し、より良い正解、自分なりの正解をつくりだすための手法に不可欠なもの、それが「失敗」なのだ。
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