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【読書録83】兵站の途は、平坦ならず~堀川恵子「暁の宇品」を読んで~

 素晴らしいノンフィクション作家と出会え、魅力的な人物のことを新たに知ることができた。

 副題は、「陸軍船舶司令官たちのヒロシマ」

 「宇品」 広島にある陸軍の乗船基地、陸軍最大の輸送基地である。そしてその心臓部が「陸軍船舶司令部」である。

輸送基地・宇品

 
 大陸への出兵基地となった宇品。伊藤博文は、山口に輸送基地を置きたかったそうであるが、鉄道が広島までしか通っていなかったこと。また港として早く整備されていたことから宇品が選ばれた。
 この地区の整備を行ったのは、広島県令で薩摩藩出身の千田貞暁。宇品の輸送部隊が、「暁部隊」と呼ばれるのは、千田から一字を取ったからとのこと。

 本書の一貫したテーマは、日本軍におけるロジスティクスの軽視であるが、日露戦争までは、そのような事はなく、明治の武人達は、「国軍の最大関心事」として、宇品を整備していく。日清戦争で、船舶輸送を総括したのは、後の総理大臣である、寺内正毅。明治天皇も台風が来ると宇品は大丈夫かと気にしていたと言う。

陸軍が船を持つ


 宇品の部隊は、「陸軍船舶司令部」である。陸軍が船舶を扱っていた。

船舶を使う海洋輸送業務は本来、海のエキスパートたる海軍の仕事だ。事実、世界中のほぼすべての国の軍隊で、海上輸送を担うのは海軍である。陸軍の出番は船から荷が下ろされる揚陸の段階やその荷を前線に運搬する輸送業務から。陸軍が海洋業務全般を担うという宇品の形態は、世界でもまれな現象なのだ。

なぜそうなったのか?

著者は、陸軍(長州)と海軍(薩摩)の縄張り争いや、鎖国の影響などを挙げる。

 急激に列強と渡り歩く軍事力である艦隊を整備する必要に迫られた海軍に、陸軍輸送に割くリソースが無く、やむを得ず陸軍がそれを請け負ったという事である。

 船を自力で整備する力をもたない陸軍は、民間から船体と船員をセットで借り受ける船舶徴用の方式を取り続ける。
 この方式によって、多くの船員達が、軍人に守られず、無防備に戦争に巻き込まれる悲劇を多く生むことになる。本書でもガナルカナルにおける鬼怒川丸の悲劇などが取り上げられる。

田尻中将の生き方

 
 著者は、本書の主要な登場人物として、「船舶の神」と言われた田尻昌次中将を選ぶ。田尻中将が書いた自叙伝を軸に話は進んでいく。この田尻中将が、軍人の枠に収まらない魅力的な人物である。

 家庭の経済事情により、京都三高に進学するも、休学し、代用教員をしなければならなかった田尻。日露戦争の戦時要員として陸軍士官学校に進学し、異色な経歴で、藩閥の壁にぶつかりつつも陸軍幼年学校の指導教官になり、陸軍大学に進学し、参謀本部の船舶班長として、めきめき実力を発揮する。

 陸軍幼年学校の指導教官時代のエピソードに共感を覚える。

 暴力を排除したこと、現場の指揮官として問われるのは、冷静な観察力と判断力であるので、それを養うには理論的な思考が欠かせないとして数学を強化することに力をいれたことそして何よりも田尻自身、夜になると英語塾にひとり通い続け、英語力を高めていったことである。

 どんな状態でも学び続けることは、幼少期から苦労している田尻ならではではないか。これは見習いたいものである。

 そんな田尻の運命を大きく変える出来事として、取り上げられるのが、七了口奇襲戦である。この奇襲戦は大成功し、賛辞を受ける。参謀本部の応援を得られない中、今村均や海軍の嶋田繫太郎と協力し、作戦を成功させる姿は、船舶の神の面目躍如である。
ただ、その際に送った電報が、小畑敏四郎大佐の怒りを買い、参謀本部から離れ、宇品に押し込められることになる。自叙伝で本人は、こう書く。

この電報は参謀本部七了口上陸可能を確認させるに充分役立ったが、その結論とするところは、若し上陸作戦に失敗するところありとせば、その責任を参謀本部に転嫁するものだと、参謀主任の小畑大佐が曲解して大に怒り、彼は陸軍省人事局長に田尻大佐は不都合だと申し入れた。これぞ私の一生を支配する深因をなした。それかあらぬか田尻は用兵の器にあらずと判断され、事後の半生を宇品の輸送機関に罐詰にされ、時いたるも連隊長、旅団長、師団長、軍司令官の要職に就くことは出来なかった。

官僚組織の不条理に泣かされることになる田尻が胸にした思いが心に響く

但馬無閥の私が軍に一生を託して将来を開拓するには、私個人の実力を養成し、個性を磨き、他に遜色なき人格を修養し、以て茨の道を切り拓き、堂々と勇往邁進するより他なき・・・

 置かれた場所で咲く。随処作主の心境である。組織で生きる上では、心に留めておきたい。そして何より今の世の中であれば、一つの組織に依存しすぎないことである。自分を磨き続けるしかあるまい。

 田尻は、そのような環境でも腐らず、宇品で目覚ましい取り組みを行っていた事が紹介される。舟艇母艦MTについては、アメリカの軍事史家アラン・ミレットから「1939年の時点で、日本のみが水陸両方作戦のためのドクトリン、戦術概念、作戦部隊を保持している」と言われ、アメリカ海軍情報部も、「日本は艦船から海岸の攻撃要領を完全に開発した最初の大国」認めている。

 その後、大東亜戦争前に、田尻は罷免されることになる。

ロジスティクスの軽視はどうして生じたか

 
 田尻が、罷免された真因を著者は、意見具申のためとする。
田尻が意見具申していったことについて、著者が取材した軍事史研究家の原剛氏は、兵站軽視を絡めて、こういう。

「幼いことから純粋な軍人教育だけを徹底的にほどこされて軍人になった者と、人間として世間で色んな苦労をして、それから軍人という職業に就いた者とではね、やっぱり違うよ。誰だって、ものを見る目だとか、何かを判断するときには、小さいころからの経験が影響するものでしょう。陸軍という組織のためにどう最善を尽くすのかという考え方において、両者は土台から異なる。田尻さんとか今村均さんのような人は、言ってみれば軍人としての巾が広い。だけど、それが官僚組織の中で生きていくのに良いかどうかは別問題だ。」

「少し大きな話になるけどね、僕はやはり日露戦争の影響が大きかったと思う。日露は『勝った』のではなく『負けなかった』戦なんだ。それを大勝利とぶちあげて、酔ってしまって、あらゆる判断が狂っていった。兵站を軽視するのも、小さな島国が資源不足で補いきれない部分を精神論で埋めていこうとする姿勢も、あのころから酷くなるだろう。実力を顧みず、思いあがってしまったんだ。それを正直に指摘しようとする者は組織からどんどん排除されていく。開戦に反対して首をきられたのは、なにも田尻さんだけじゃない。まあこういう話は決して昔話じゃないけどね」

また陸上自衛隊輸送学校・森下智二佐の分析も紹介したい。

「昭和期に兵站軽視が顕著に表れた理由は多々ありますが、根源的な要因は士官学校や陸軍大学における教育の結果だと思います。教育体系が明治・大正・昭和と逐次整理されていくなかで、指揮官の企図や師団規模の部隊運用を優先される思考が固定化されていきました。その背景には陸軍の世代交代や、国力の制約などの要因もあります。」

専門教育のみで育ったリーダーが陥りやすい視野の狭さや、日露戦争の勝利に過剰適応していったプロセスは、「失敗の本質」でも分析されていることである。

 そして、原氏も言うように「こういう話は決して昔話じゃない」。今の組織でも陥りやすいところである。

田尻後の船舶司令部

 
 話は、田尻退任後も続くが、不条理な話が続く。

・非現実的な「ナントカナル」の戦争計画。勇ましい意見が、空気を形成し、慎重な意見を言うものは、第一戦にとばされる不条理。
・軍人・軍属でもない船員が、配給も受けられず、ガナルカナル島で朽ちてゆく不条理。
・輸送部隊が特攻艇開発へと変身していく不条理。

そんな中、田尻を継ぐ、佐伯や篠原の広島原爆における救助活動における迅速な対応は、兵站を主担務とする船舶司令部の面目躍如でもある。

最後に

 
 田尻には、組織の不条理の中でも、自分の信念を持って、能力を磨きながら発揮していくという事を考えさせられた。広い視野を持つことは重要である。そして、田尻にとっての今村のように必ず理解してくれる人はいるのだということも。

良い作品・良い人物に出会えた。



 


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