ネット物販で南の島暮らし 13
翌日から一気に物事が動き始めた。
まずはサンセットのご夫妻にとりあえず一旦東京に戻って、アパートを引き払って本格的に移住をすることに決めた事を伝えた。
ありがたいことに、今こちらにある荷物も預かってくれることになった。飛行機のチケットも確保した。
次に住み込みのスタッフを探しているというサンセットカフェの隣にあるゲストハウスのオーナーの国仲さんを訪ねた。
国仲さんとはサンセットカフェで度々お酒を飲んだこともあったので話は早かった。
一旦東京に帰り、アパートの解約手続きをして二週間後には石垣島に戻ってくるので、そこから働かせてもらえる事になった。
引っ越しを二週間で終えるつもりだ。でも、荷物はほとんど処分するつもりだ。翌月分までの家賃を払う必要があるかもしれないけど、そんなことよりも早く石垣島に戻ってきたかった。
なんだか、ワクワクして早く先に進めたいのだ。先がどうなるかはわからないけれど、それでも先に進みたい…そんな気持ちに駆り立てられていた。
その夜、プーさんからメールが届いた。
『智恵ちゃん。覚悟を決めたようですね。きっといろいろな事が動き始めると思います。これからが楽しみだね。
ここで僕から宿題を一つ出します。引っ越しの手続きをして、石垣島に戻ってくる前に、一度ご実家によってご両親に会ってくること。そして、石垣島で何をやろうとしているのか、ちゃんと説明してくること。そして、応援を受け取ってくること。以上、この宿題をちゃんとやってくるように。』
えーーーーーーーーーっ!絶対無理…無理、無理、無理、無理。(冷汗)
だって、前にもいろんなセミナー受けて、起業してみようかなんて活動していた時に、「あんたにそんな事できるわけないでしょ!」って、散々反対されたんだから。「そんなことやってないで、早く誰かいい人連れてきなさいよ。」なんて感じで話も聞いてくれなかったんだから。お父さんなんか、完全無視だし…。
とりあえず、既読スルーって事にしておこう。
東京へ向かう飛行機の中では、まずはブログの記事を書いてみる事にチャレンジしてみた。
まずは、私の自己紹介でもしてみるか…はじめまして…『島風』店長のチエです。…島風は、『しまかじ』と読みます…当店がお届けしているアクセサリー作品が製作されている石垣島の方言なんです。…
プーさんにアドバイスしてもらったように、実際に私の友人に話しかけるように…私自身の心が動くような文章になるように…お客さんを楽しませるように……なんだか、不思議と言葉が湧き上がってきた。
気づけば、自己紹介と石垣島の紹介などだけでも2000文字を超える記事が書けていた。
こんな感じなら、コンスタントに書き続ける事もできるかもしれない…そう思えた。
羽田空港に到着して、リムジンバスに乗るために空港の外に出ると八月後半の東京は石垣島以上に暑かった。さらに立ち込める排気ガスの匂いと熱気に頭がクラクラする。
約二ヶ月間の石垣島生活で私の体のセンサーが変化してしまったようだ。なんとも嫌〜な汗が吹き出してきていた。
リムジンバスに乗り込んで西東京にある我が家へと向かう。首都高速を走りながら立ち並ぶビルや、湾岸地域の高層マンションを眺めていると、なんともリアリティが感じられない映画を観ている様な不思議な感覚がしていた。
…もう、ここには住めないなぁ…
都会の街並みにときめきを感じなくなってしまっている自分がいた。
リムジンバスと、路線バスを乗り継いで二ヶ月ぶりの我が家に帰ってきた。
閉め切っていた1D Kのアパートの窓を開けても見えるのは、道を挟んだ向かい側のマンションの廊下だ。
「さぁ、早く帰ろう。石垣島に。」
そんな言葉を心の中で呟いている自分がいた。
アパートの解約の連絡は石垣島からすでに電話していた。一ヶ月後に退去できれば良いのだけど、正直、もう早く戻りたくて仕方がなかった。
翌日からは荷物の整理が始まった。捨てられるものはどんどん捨てていった。リサイクルショップで買い取ってもらえそうなものはリサイクルショップに持ち込み、家具などの持ち込めないものも査定に来てもらうことにした。
買い取ってもらえそうもない粗大ゴミは役所に連絡をして処分の段取りを組んで行った。
ほとんどの荷物は処分するつもり。身軽になりたかった。部屋の中からどんどんものが無くなっていくのが快感でさえあった。
私を縛りつけていた何かが、少しずつ取り払われていくような感覚だった。
ただ、一つ引っかかっている事がある。…プーさんの宿題。
私の実家は埼玉県で電気設備工事の会社に勤める父と、食品加工工場のパートの仕事をしている母。すでに独立して製薬メーカーに勤める弟と私の四人家族だった。寡黙な父と賑やかだけれど口うるさい母、社交的で愛されキャラだがどこか抜けていた弟。貧しいというわけではなかったが、決して裕福というわけでもなかった。
ただ子供の頃、父が以前勤めていた会社が倒産し、しばらく無職だった時期があったようで、その時いつも母がイライラしていて父の方は塞ぎ込んでいた様な光景が微かな記憶の中に残っている。そのせいか、私はどこか両親に甘えるという事ができなくなっていた。
弟は、欲しいおもちゃが買ってもらえないとなると、床を転げ回って駄々をこねる様なことがあったが、私はそんなことを一度もした事はなかった。
我ながら、あまり手のかからない子供だったのではないかと思っている。
私の中のどこかに『我が家にはお金が無い…』という想いがあったのだ。父も今の仕事に再就職を果たし、母もパートで働いていたのだから、決して貧しいというほどの経済レベルだった事はないと思うのだが、親に負担はかけられないという思いがあった。
だから、地元の商業高校を卒業後は、社員寮も完備されていた東京の企業に就職したのだ。まぁ、その会社も人間関係がらみのトラブルで5年ほど勤めた後に退社して、今の様な派遣の仕事を渡り歩くような生活になってしまったのだけど…。
ただ、こういった人生の決断をほとんど両親に相談したことはなかった。
一度だけ、当時副業で何かできないかと、いろいろなセミナーに申し込んで、そこで知り合った友人からM L M(マルチレベルマーケティング)のビジネスに誘われ、勇気を出して母親に話してみたら大反対にあったという訳だ。
今度だってまた、反対されるだろう。また「あんたは騙されてるのよ!」みたいにキレられそうで、想像しただけで胃の裏側あたりがギュッと掴まれたような気分がしてくる。
無理だ…この宿題はスルーしよう。とりあえず両親に話して、応援してもらえることになったって事にしておけばバレはしないだろう。
「ピコーーーン!」
携帯のメール着信音が鳴った。
なんとなく嫌な予感(汗)…予感的中…送信者はプーさんだった。
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