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出生のルーツから現れる、偶然性への想像力と小さな畏怖

もしも、あのとき、こうでなかったら、どうだったろうか。そうだとしたら、今の自分は存在していない。別の道を歩んでいたかもしれない。そう思う。大学2年生のときに留学をかんがえていた。英語のスコアが十分じゃなくて行きたかったイギリスは諦め、そのなかでは1番よくわからなかった、スウェーデンに留学した。それがデザインに興味をもつきっかけになった。
大学4年時にインターンをしていた会社には、迷った末に就職しなかった。結局、新卒ではいった会社は9ヶ月で辞めた。社長と喧嘩もした。で、インターンをしていた迷っていた方の会社に転職した。そこで、色々と考えるきっかけがあった。あのときに、新卒でそのままインターン先に就職していたら、その考えの発酵はしなかったかもしれない。

そんなことを考えれば、きりがない。でも、それを考えてみると、いかに今の自分がたまたまの積み重ねで、奇跡的なめぐりあわせで、ここに立っているんだと、素直におどろくことだろう。ありがたい、感謝をするとは、有り難いとかく。いまここにあることは縁起のたまものであって、有難いことである。ひとつこれと異なる過去が現実のものとなっていたとしたら、別の人生を歩んでいた。

こうした考え事は、往々にしてある。映画でも、このようなwhat if的設定やパラレルワールドは鉄板だとおもう。それでも、一人の生を引き受け直すのであれば、そんな奇跡を自覚して、深く身体に杭のように、その自覚を打ち込んでおくことは、とても大切だ。少なくとも、ぼくにとっては、それはひどく大切なことだ。

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親ガチャという言葉がある。自身の出生やコントロールしえない家庭環境への風刺的な言葉でもあるが、今の世相を表しているがゆえに、こんな言葉が社会的に広がるのだろう。生まれたくなかった、というひとも今ではいるだろうし、そんなイズムすら出てきている時代に、生きづらさを抱えながら生きている。生まれた家庭が、誰しもにとって望ましかったわけではないかもしれない。しかし、恋愛と出生というものは、自身の「たまたま」存在できる有り難さを痛感するための、とっても強力な想像の窓にもなる。

先日、お盆もあってなのだが、母方のおばあちゃん・おじいちゃんの米寿祝いもあって、帰省した。父方のおじいちゃんはすでに亡くなり、おばあちゃんは先月、米寿祝いをした。88年いきる、というのはどれだけの時間の流れを経てきたのか、いまいち、ぴんとこない。30を過ぎた自分の単純におよそ3倍の時間なのだが、時間ってのは大体にして伸びたり縮んだりするものなので、まあ、当てにはならない。

小さい頃から二世帯住宅のようなものなので、父方のおばあちゃんにはお世話をしてもらったのだけど、初めておじいちゃんとどうやって出逢ったのか、といった話をきいた。これまで気になったこともなかったのが正直だった。ぼくは親に向かっては、出逢いのエピソードをきいたことはあった。でも、おじいちゃんにもおばあちゃんにも聞いたことはなかった。聞こうとしたこともなかった。当然だけど、そんな出逢いを経て、父が生まれ、ぼくが生まれているのである。

出逢いのエピソードっていうのは、それが恋愛やら結婚やらに限らず、いつでも有り難さに満ちているから、魅力的だ。おばあちゃんは、お見合い婚だったという。でも、おなじ町に住み、当時から家をもって次男坊だったおじいちゃんのことは知っていた。地元の名士とまでは全く行かないが、それなりには裕福なほうだったらしい。結婚当時は五右衛門風呂に入っていた、なんて話も聞いた。

ディテールは覚えていないし、覚えていても赤裸々に綴る気はないのだけれど、そのときなんとも言えない感覚に陥った。それは、自身のルーツに迫る感覚でもあり、その見合いがなければ、今の自分は存在していなかったことに対するある種の畏怖の念である。そう、畏怖っていうのは、何かこう、自分の手の届く範囲を圧倒的に超えている。山と対峙したり、広大な海を目の前にしたときになんか、抱く感情に似ている。なんだけど、こんなにも身近、ある種なによりも身近ーだってぼく自身の出自にかかわるんだからーなところから、畏怖の念を抱くことってあるんだ、とびっくりした。

正直、88歳なんてもういつ亡くなってもおかしくないくらいの年齢だ。年齢によらずとも、ひとはいつだって死と隣り合わせの無数の可能性のなかで、有り難く、たまたまに、今を生きられているのだから。だから、おばあちゃんが生きているあいだに、そうした話をきけてうれしかった。とてもよかった。自分が生きている、という感覚に少しまた厚みが出てきたような気がした。

この厚み、っていうのはとても不思議だなと思った。それって、多分、家業なんかのひとは8代目です、27代目です、とものすごく長い時間の堆積の上に立ったり、数百年の時の流れを一瞬にして今ここに顕現させているんだろうけど。そんな人じゃなくとも、少しは似た感覚を抱けるんだな、と思った。そんな時間の厚みだった。ぼく自身が、分厚い時間に生きているというよりは、分厚い時間の上に乗っかっている、後ろからそっと押してくれるものがある、といったもの。

家系図をつくる、なんてことも少しだけ流行っている。流行っている、ほどじゃないかもしれないが、巷でやっている人はたまに耳にする。それをつくったらどうなんだろう。ただ、出逢いの物語の生々しさというものが、そのリアリティを帯びるためには重要だ、という気もする。だって、おばあちゃんの若い頃、というリアリティと、200年前の名前の読み方すらわかるかわからないかといったご先祖さま。やはり、固有の生を感じられることが重要なのだろう。VRで死者のホログラムを、といった技術も最近でてきているし、死者の権利の問題だって当然あるのだろうけど、こうした時間の堆積や小さな畏怖の念を感じやすくなる情報環境も、ぼくのまだ見ぬ孫の世代くらいには当たり前になっているのかもしれない。

ただ、お盆だからこそ、固有性も実感はしえない、名もなき祖先たちの息づかいを実感し、手を合わせるような時間を大切にしたい。

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