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身体と死という有限性から、一瞬を汲み尽くす

有限性、という言葉はいろんな角度から見直されるべきかもしれない。限りがなければ、人は思うように生きていけない。

フロムが『自由からの逃走』で書いていたのは、そういうことだ。個人が法権的社会の中で階級的なものから解き放たれ、自らの生き方を模索する中世。無限の情報に溢れて、何者かにならなければと逼迫したプレッシャーが蔓延する現代。

最近みた『すばらしき世界』という映画では、殺人罪で13年刑務所にいた三上という中年男性が、娑婆にもどり、なんとか生きようとするが、日本社会での復帰の難しさと人々の好奇や偏見のまなざし、一方で気にかけてくれる人が徐々にできてくるあたたかさを両面から描いてた。その中に、「一度レールから外れたら、もう戻れない。そして、レールの上で生きている私たちもまた、いつ落ちるかわからない。だから、レールから外れた人間がきもちよく生きることを受け入れられない」といったようなセリフがあった。

新自由主義とは、限りなく個人の自由と市場経済への介入を抑えて、好きにやっちゃって、という世界だ。その中で、限りがある人生をまっとうに生きていくことが、こんなにも難しい世界だ。「娑婆は我慢ばっかりで、我慢したって何もいいことはない。でも、空は広い」というセリフがこころに残る。

自由を無限な選択肢が広がっているなかで選び取れることであると捉えると、その中で選択したことがらに自己で責任を負わなければいけない。そういった無限な社会に、ただ一人で晒されるのは怖いものだ。
ただでさえ無限ななかで、どうしよう、と身動きが取りづらいのに、動いてみて、レールから外れたら、もどれないとなれば、そりゃみんな動かないのも自然である。

そんなときに、どこから始めるか、というと偶然すでにあるもの・自身の中にうずまいたり、取りまくものに委ねて、進んでいくしかないのだ。以前かいた「たまたまという制約」という記事は、哲学者の千葉雅也さんと作庭のフィールドワーク記を書いた山内朋樹さんの対談内容から書いたものだ。庭を作る時には、まずひとつ石を置いてみる。その石があることで、次に何をどうするか、動きやすくなる。この無限をたまたまで抑えていく。どっちに進むかを仮固定する、ということが、とても制作において重要だと言ってた。無限の関係に接続しているのだけど、いい具合な切断が重要だ。

有限性をつくることで、動きを出していくことは、ある種の技法でもある。身動きが取れないと澱んでしまう。土壌も、風と水の循環が澱んでしまうと弱っていくように、人の身体も、血液や気が澱むと弱っていく。無限に立ちすくみ、身動きが取れないのは、この澱みのようなものなので、当然具合が悪い。だから、まず決める。これまでやってきて、楽しかったことでも、印象に残っている思い出でも、友人の関心に乗っかるでもいいので、それを足場にして、何かやってみる。一つのことにひとまず点を打てば、それは自ずといろんな別のことがらにつながっていくはずなのだ。

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これは、今の無限に広がる情報社会のなかで、どう生きていくかという技法だ。一方で、ハイデガーの死への存在のように、死は究極の有限である。誰もが死を迎える。それを忘れると、人生という有限性を、つまり終わりあるものとしての生を、まっとうに生きられないばかりになってしまう。無限に立ちすくんでしまうのは、いつ死ぬか分からない生の有限性に向き合えていない状態でもある。

たまに妻が話す。「実は私たちが一緒に過ごせる時間ってそうは長くないじゃない。毎日働いてたら、朝と夜だけ。土日も週に2回だけ」。日にちで数えたら、微々たるものになってしまう。親や友人なんかもっと少ない。1年に1度、2度帰省したとして、年に2回。それをあと20年でも40回、30年だと60回。かぎりが有る。

ぼくも彼らもいつ死ぬか、当然わからない。でも、あったときにはまたこれが、無限につづくだろう、今後も同じような時間が流れるだろう、と楽観的な期待を先取りしてしまう。死や老いに直にふれることは少なくなった。
漢方と東洋医学に詳しい方に先日話を聞いたが、男性の身体は32歳を境に老化する一方だという。女性は28歳が境だという。もう老いていくしかない。

そして、最近は前より油っぽいものを食べれなくなったし、疲れも溜まりやすい気がする。身体も有限なのだ。そして、その有限性のサインのようなものは、すでに受け取っているはずなのだ。今年の気候が明らかにおかしくて、だれもが気候危機はリアルなのだとうっすら感じざるを得ないように、老いもまた当然すすむ。死への時間は常に流れている。

死を考えるとは生を生き直すことだ、という話がある。これは死ぬ地点から逆算して今をどう生きるのか、というバックキャスティング的な話でなされることもある。30年後に死ぬかもしれないと言った時に、今をどうするか、といった思考だ。一方で、死は常にそこにあるときに、今死ぬかもしれない世界線が浮かんでくる。となれば、今死ぬかもしれないけれども死んでいない自分を意識する。それを認識として保ち続けるには認知負荷がかかりすぎるので、うまく忘却するように出来ているのだろうけど、死とは今を生き直すというのは、「今のうちにやりたいことをやろう」も重要なのだが、本来は今の一瞬の輝きに目を向けるという意味合いなのではないか、と思う。

そして、ぼくらが有する「身体」は、常に変わりながら、老いや死を孕む有限だ。その身体で感受する一瞬のいまここという瞬間も有限だ。数学者の森田昌生さんのエッセイは身体で世界とふれあう時間、その瞬間のかげかえのなさ、つまり常に世界と一期一会に出逢うことの尊さについて書いていた。

身体を自分で動かせることは、当たり前ではない。身体を通して世界と触れ合える「持ち時間」は限られている。身体的な経験の可能性の条件そのものが、いつまでも続くわけではない…もし身体を使って世界に触れられる時間が、あらかじめ限定されているのだとしたら。やがて、身体を通してこの世界とじかに触れ合うための、あらゆる手段が失われてしまうのだとしたら。いましか使えないこの身体を使って、何に触れ、何を見、何を聴こうとするだろうか。

子どものように考える

しかし身体という有限性も、徐々に失われつつある。AIが台頭する世界とは、どんどんと身体性が乖離していく世界でもあるが、身体性をもたないAIが人間を超えるなんて、深い意味では無理だろうと思う。こういった自由な選択、死の忘却は、無限成長神話の影響にあるのだと思う。もっと、どんどん、良くなれる。右肩あがりで成長できる。資源を投下すればリターンが得られる。といった幻想のもとで突き進んできた資本主義社会の無限という前提が、ぼくらの生への向き合い方にも影響しているのではないかと思う。

ぼくは、この常に一期一会をどう体現できるのだろう、といつも憧れてしまう。自分もまた、死を忘却して、無限に生きようとしている節が存分にあるからだ。一期一会に世界と出逢いつづけること、石を置いてまず動き始められる空間へ身を投げ出すこと。それらは一瞬のいまを汲み尽くすための生の技法だ。

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