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受け給うことと、変えられないこと

あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである

ぼくはこのセリフがとてもすきだ。マハトマ・ガンディーによることばだ。自分が変えられないようにする。自分というものを維持するために、抵抗していくために、活動をする。インド独立といった文脈は、当然このことばからは強くにじみでているように思う。

こんな文脈とは全然ちがうのだけれど、変えられないこと、ということに対する抵抗感はときにとても難しいものになる。もちろんこのことばは、ひとりの人間としての尊厳、わたしがわたしであるという生の充足、そんなことに向けられている。

ただ、変えられないようにする、というのは現代に生きる神経症の自分たちには、ときに単なる自己庇護になる。「かわいい自分のしょうもないプライドをまもる」ために、防御壁をはる、ということだ。

先日、パートナーと喧嘩をした。なんというか、愛情表現とかってぼくはとても苦手なタイプだ。別に「好きだよ」などと言わないわけではない、でも、じぶんのタイミングがある。そして、過剰な表現を求められることがとても苦手だ。過剰な表現が、べつにじぶんにとっての愛情表現の方法なわけではないし、言いたいわけじゃないときに言わされる、というのはそれこそ嘘じゃん、と思ってしまう。もちろんパートナーのことは好きだけど、今その瞬間にその感情の全身をもって、そのことばを言いたい、とぼくの体が感じているわけではない。

といった具合で、「それはあなたがこれを言ってもらえたら満たされるという幻想の期待をおしつけてるんじゃないの」とか、けっこうじぶんの琴線にふれて、口調が荒くなった。さて、しかし、なんで自分がこんなにもこれが嫌なのか、よくわからない。自分が支配されていく感覚があるのはまちがいない。一方では、自分が感情の波や表現が得意ではないことへのコンプレックスかもしれない。

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先日、山形の羽黒山の修行体験に参加をしていた。詳細はかかないのだけど、修行を率いる先達の言うことに対しては返事の一切は「うけたもう」にかぎられる。それは、すべてをひらいて一切をまずは受け入れることだった。どんな叱咤にたいしても、どんな無茶振りにたいしても、自然の厳しさやゆらぎにたいしても、まずは「うけたもう」だ。

それはさっきの「変えられないようにする」ことの対極ともいえる。うけいれがたいものも、うけたもうしなければいけないときに、必然、変わらなければ咀嚼できないからだ。このときの、変わる、とはもちろん程度がある。「こういうのつらいから嫌だな、とおもっている自分の気持ちを手放す」といったものだってある。

とにかく、自分の壁をとっぱらうひつようがある。しかし、これがやっぱり日常の中ではなかなかにむずかしい。そして、ただなんでもかんでも「うけたもう」ていたら、それは支配されていることと紙一重にもなってしまいそうで、むずかしい。他者のいいなりになるわけでは、決してないのが、この実践でむずかしいところだ。一度うけいれる、その判断を一旦宙吊りにする。先達は「とはいえブレないことも大事だ」と話してた。そのブレなさと、うけたもう、は矛盾させてはいけないのだ。

パートナーとの喧嘩でいえば、ぼくはやっぱり過剰な愛情表現をすることはなかなかにできない。でも、そう言われたことを一度は真っ向から「うけたもう」必要があった。そのやりとりのなかで、感情が高まらない受け止め方だってあったはずだった。多くの人は、じぶんのプライドを守ることを大事にするし、ぼくもそう。


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