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曖昧さと、覚悟を引き受けること

「曖昧さ」というのが、大切な時代だ。曖昧な状態とは、霧のなかに迷い込んで方向感覚を失ってしまうような。答えや行き先も見えないような。どっちつかずでいるような。

そんな宙吊りされたような状態。それは、近年でいえば詩人ジョン・キーツが説いた「ネガティヴ・ケイパビリティ」と言われるよう、現代をサバイブするのに必要なのか、豊かな生を全うするために必要なのか、ともかくある種の”スキル化”されつつある態度のように感じる。

レベッカ・ソルニットも「迷うこと」について書いている。ぼく自身、曖昧さとは、比較的うまく付き合えている感覚もある。結局のところ、この問題はこう考えた方がいい、とすっぱり決められるタイプでもない。
曖昧さとは、つまるところ「なにがよいのか」がよくわからなくて、断定できなくて、だからその判断を留保することでもある。

こういうことも言えるじゃん、とか、こっちからみたら?とか。それは、自分とは異なる他者の目線だったり、現在という時間軸を少しだけ伸ばしてみた視点からだったり、すこし目線を広げたら、「よい」なんて簡単には言えないことがわかる。

内的なトランジションが起こるとき、要は、これまで歩んできた人生からすこしだけシフトするってタイミングには、なんだか方向感覚がわからなくなる。それは、今のこういうことは嫌だなーとかこういうことから抜け出したいなーとか、こういうのいいよなーとか、そんなふわっとした感覚から始まるかもしれない。

しかし、その感覚が徐々に、いま自分がもっている感覚を侵食してくるようになる。気づいたら、今の自分をいちど壊してぐちゃぐちゃにしてみないと、次にすすめない。そんなときがよくある。

曖昧さとは、そうしたときにじゃあどっちに進めばいいんだ、ってようわからん、といったこと。よくわからないから、ネガティブであるわけではない。それは、無数の可能性のあいだをたゆたうことができる、かけがえのない時間でもある。これだけこの必要性が、社会的に説かれているっていうのは、多くの人がいますでにある慣習に飼い慣らされていると、そんな無数の可能性に想いを馳せることもままならないからだとおもう。
だから、こういう曖昧さと仲良くなることは、自分の生の可能性を見つめ直すことでもある。

ぼくは留学を終えたあと、進路どうしようかな、、ということにひたすらまよっていた。ぼくはとくに友人が多いわけでもなく、人付き合いも得意でもない。対して好きでもない。ひとりでいることは普段からおおいのだけど、そんなときには、とりわけ意識的にひとりになる。森にいったり、少し離れた地に足を運ぶこともある。そしてノートに、いろんなことをとにかく書き出してはぼーっとし、琴線に触れることばを本から見出し、また書き出して、といったことを繰り返したりする。集中的に1週間くらいやる。

この作業はとっても苦しいし、この時間は何もしていないように思う。でも、思えばふだんからぼくは対して何もしていないようにも思う。仕事や研究や面白いプロジェクトなんて、引いてみれば大した意味はもたない。1週間、なにもしなくてもなんら影響はない。自意識過剰の問題でもあるけど、自分のことを小さくみていたら、このあたりは大丈夫になる。

この時間は、けっこう、かけがえないよなー、と思う。その独特な苦しさは、なかなかに分かち難い。でもそれなりに好きだ。感覚的だけど、そしてその向き合い方の深さの程度はあれど、ぼくは1年に1回はこういう時間をかるく取っており、2.5年に1回はとても深くもぐることが多いように思う。

でも、そんな時間も、外からみると「いい悩みだね」って程度のことも多いのではないか。最近もウィーンでまなんでいた知人が帰国して、飲みながら、これからどうするの?なんて話をしていた。こうした帰路に立たされたときに、どんな可能性に想いを馳せ、汲み取るのか、それによって自分を解体しないといけない度合いも変わるような気がする。だれかが、そんな曖昧さのなかに、無数の可能性のなかに、浸っているときにはぼくも「いい悩みだね」っておもう。

その悩みに触れることで、自分もいまの可能性の再考をせまられる感覚に至る。同時に、そういうときには自分の経験をはなしたりすることもおおい。今じぶんは、こういうことをやってきて、ここに立っていると。そして、こっちに行きたい気がするんだ、と。そのとき、可能性の再考とともに、今の自分にしっかり根を下ろそうとすることにも気づく。ポール・ゴーギャンの絵画の名称「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」とは、端的にいえば一編の物語だ。語り直すことで、その物語をより信じ込むようになる。

そんな中で、感じたのは、こうした無数の可能性を切り捨てない、それを見ようとすれば見れて、今とは異なる可能性に飛び込もうとすれば今を捨てて飛び込める。そうやって、可能性にひらかれていつつも、今目の前でやっていることをしっかりと引き受ける。それをどう両立させていくのか、とても難しいなと思った。

なにか折にふれた転機に可能性のあいだを縫うようにあるくこと自体は素敵なことだ。それには相応の時間もいるので、拙速にここが目的地だ、と納得するのもよくはない。ただ、いつまでも、いろんな可能性を追い求め続けて、それが常態的になるとき、ある種の逃避になってしまう。

簡単にいえば、隣の芝を青くみている状態だったり、そこへの憧れはなんとなく抱きつつ、目の前のことに向き合うことはやりきれない状態になる。そうなると、手触りなく、よくない空中浮遊になってしまうんじゃあないだろうか。

最近、自身の会社を経営している友人とはなしたのは「地域に根ざすこと」や「コンサルじゃなくて自分の事業をつくりたい」といったことだった。また、留学から帰ってきた知人とはなしたのは、「デザイン留学をしたひとの受け皿がなくて、結局コンサルにいく人も多いよね」みたいな話だった。これら二つは共通している。

コンサルが悪いわけではない。それはあくまでつぎに述べるような問題系の象徴的イメージ、としてとりあげる。要はそれは、身銭を切る必要がないことが多い。リスクゼロで、何かの状況の外側に自身を置いて、安全圏からその状況に関わることになる。そうなったときに、いろんな可能性に安全圏から手をだせる。でも、自分は何を引き受けていくのか、それを決めないままで、ただいられる。

受け皿がないというのも、受け皿がないと思っているだけの話で、それは結局自身が何を引き受けたいのか、ということまでいっていないからじゃあないか、という話をした。
もちろん、こんなことを話していると、そのことばはぼく自身にもはね返り、突き刺さる。引き受ける、ということは簡単じゃあない。覚悟と勇気がいる。そして、その引き受けられる状態、ようは責任が生成されていくには、単に意志でなんとかなるわけでもない。

引き受けるとは、ある呼びかけに対して、応答していくことだ。その呼びかけは、それこそぼくらをつねに「無数に」とりまいている。そこに対して「一時的に応答する」ことはできる。ただ「応答しつづける」となると、ながい関係性を前提とする。それを引き受けることでしか、ぼくらは孤独の世界から、本当の意味での他者関係に分け入っていくことはできない。

それは、家族やパートナーを考えてもそうだとおもう。マッチングアプリ時代の恋愛は、常に「無数の可能性」が恋人候補として存在する。手札をめっちゃ選べる状態だ。そのなかで、数人に会ってみたとて「もっと別のだれかがいるのでは。自分にあうひとは、他にいるはず」とロマンを追い求め続けると、どんな関係をも引き受け、コミットメントすることはなくなる。それに近いのではないか、とおもう。

そう考えると、性愛や恋愛を見つめ直すことは、こうした「引き受け」のはなしのとってもいいテーマだとおもう。ぼくも常日頃、考えさせられることがおおい。

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