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創ることや生きることの政治性について

「政治」と聞くと、やはり多くの人の中でのイメージは政治派閥や政治家、●●党、選挙投票、のような連想につながることが多いのではないかと思います。英語ではPoliticsという単語に相当するこの言葉。

日本の"政治"は神への奉仕という意味合いで「まつりごと」という語源からきているとされていますが、一方で西洋の"Politics"は古代ギリシャ時代の都市国家ポリス・市民ポリティカなどが元になり、ポリス内のルールへの議論に参加することから来ているとされています。

一方、海外の記事や論文を読んでいるとPoliticalという単語、わりかしいろんな文脈で使われていることに気づきます。これは「政治」ではなくて「政治的・政治性」と訳せるでしょうか。でも日本だとあまり使わない気がするんですよ。これ、どういう意味合いなのか。最初は結構、理解の仕方に困ったんですが、最近少しずつ深まってきた気がします。

「政治」とは、何なのか

まず、政治の根源的な部分とは何か。とてもおすすめの本から参照したいと思います。

政治とは本来、互いに異なる人たち共に暮らしていくために発展してきたものです。
未来をはじめる「人と一緒にいること」の政治学より

と宇野重規さんはとても簡潔に述べています。この前提にあるのは私たち一人ひとり、異なる人間で異なる考えや行動をすること。そのために、そこに起こる差異に対して調整をかけていくが必要になる、それが政治。互いに異なる自由を認め合い、生きていく営み。

それは、国の政策や公共サービスや、税金の使い方を決めることももちろんですが、もっと日常に根ざしているという意識が大事。今日の夜に何を食べるか友達と話し合う、デートの行き先を決める、そうしたときにも政治が行われるということです。その治め方の方法論として、多数決があったり、熟議的な話し合いがあったり、投票があるわけですね。

では、Political=政治的、とはどういうことなのか。それが創るという行為や、日々の生活にどういった意味をもつのでしょう。

すべては、「政治性」を帯び、「政治的」である

まず、創ることの政治性について少し考えたいと思います。先日、Design as Critical Practiceという授業では、フェミニズム理論の実践への接続を試みているアーティスト・キュレーターにお話を聞きに行きました。そのときに、投げかけられた問いの1つに「あなたは自分の実践をどのように政治的な観点で捉えている?」というものでした。

そして、一人の子が「私のファインアートの実践は全然政治と関係ないし...」という発言をしていたのですが、多くの人ってそうだと思います。創る行為と政治性の関連性を意識することはない。それは冒頭に述べた政治に対するイメージがそもそも限定的であったりするから、ではないでしょうか。

この場で話されたことで心に刺さったのは"Everything is political, Nothing is neutral"という言葉でした。あらゆるものは政治的な色を帯び、中立なんてものは存在しないのだと。もう少しかみくだくと、あらゆる創作や選択は政治的である、とぼくは解釈しました。

"創る"の政治性

まず、創るということの政治性とはなんなのか。デザインやアート、あらゆるクリエイションにおける政治性とはなんなのか。例えば、あらゆるデザインというのは未来についてのイメージを生み出し、現実に介入していく行為でもあります。そのプロセスでは、こういう問いを考えるのは常でしょう。

・そのデザインによってどのような未来を生み出したいのか?
・なぜその未来が"良い"といえるのか?
・それは、誰のためなのか?誰のための未来なのか?

しかし"誰か"を決めることは往々にして"誰か"以外を排除することにつながります。それは"誰か"以外に対して悪影響すら及ぼすことはあるでしょう。その未来の"良さ"はこうした特定の視点や選好、優先順位により決まり、描かれます。一方で、プロセスの中では下記のような問いも立ち上がります。

・誰がその未来を想像するプロセスに参加すべきか?
・誰が"良さ"を決めるのか?
・そのイメージやプロセスから、見逃されていることはなにか?

ここで、冒頭の「政治とは本来、互いに異なる人たち共に暮らしていくために発展してきたもの」という意味に立ち戻ります。個々人は差異をもつという前提があり、それゆえに異なる関心や利害が絡む。他方、特定の場には一定の力関係が働きます。こうしたことに調整をかけることが政治という営みでした。

あらゆるものは政治的・政治性である、というメッセージは、このような差異による利害、選好、関心、権力性というものを意味するのではないかと思います。そしてこれを、"創る"という文脈と接続してみると、何を創るかのイメージ(imagination)、創る過程(process)、創った結果(creation)における、あらゆるポイントにて、この価値選好や利害関係・権力にまつわる意思決定をしていることに他ならないと言えます。その創作には自分の政治的なスタンスが投影されているのです。

そして、その選択の積み重ねの背後には、自身や組織の価値観やバイアスの投影があり、その選択の積み重ねはそれを超えた大きな社会のイデオロギーの創出・強化(ex資本主義、人間至上主義など)につながります。これらの意味で、創ることは常に政治的な行為であります

"選ぶ"の政治性

より日常に近づけて考えてみると、日々の中であらゆる選択を行っています。一番わかりやすいのが消費という文脈です。MacというPCを使うという選択でも、それがかっこいいという以上に、利益を生む大企業に貢献するという意味合いを帯びます。

少しズレますが、関連している概念として、Slavoj ZizekはCultural Capitalismを提唱し、資本主義により、こうした価値選好や倫理、文化的側面が消費と結合していることを指摘します。Zizekはスターバックスの広告の例を挙げます。

「スタバのコーヒーを買うことは、そのコーヒー1杯以上の"コーヒー倫理"とでも言うものの支持者になることです。このスターバックスのShare Planet Programmでは、世界のどの企業よりもフェアトレードの豆を購入し、農家が適切な報酬を受取ることを保証しています...あなたがスターバックスを選ぶとき、あなたはよりケアしている企業をコーヒーの購入を通して支持するのです。だから、こんなに美味しいのか!と納得ですよね。」
(THE IMPASSES OF CONSUMERISM, Zizekより)

この広告は購入することの政治性を浮き彫りにしています。何かを選ぶということ・"買う"ということは、買うモノ・サービスがもつ以上の意味ーイデオロギー・価値観・将来ーを持ち、選択している投票行為なのです。

この例では、フェアトレードにより農家へのケアを支持する一方、結局は既存の資本主義という不平等を生み出すシステム自体を受容するという矛盾が起こっています。が、それはケアを重視するという選択により得られる"良いことをした感"で覆い隠されます。
もちろん、ケアのないプロセスから焙煎されたコーヒーよりはマシですが、これはより深いレベルで自らの政治的な選択に無意識的であるという批判とも取れます。

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すべては政治的な色を帯びるということ、常にそれに意識的になり選択するのは難しいとは思います。というか、極論、何もしなくても何も選ばないという選択をしても、つまり生きているだけでも、それは政治的なのです。

それは自己の選好の証明にもなる。それは、自分を知らないといけない。そして、それがより大きな社会の価値観にどう繋がるかを知らないといけない。そうしたリテラシーをどう養っていけるのか?を考えていきたいと思います。


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