生きられる経験とパフォーマティブな公共性

この3月に、「産まみ(む)めも」という1年にわたるプロジェクトの集大成として展示を都内でおこなった。産むことへの複雑な葛藤やもやもやを日頃出逢うことのない人々とわかちあいながら、自分なりの物語を織っていく。
不妊治療や特別養子縁組 (以下当事者)、医療者の方へのヒアリングをおこなったうえで、数人の当事者のかたと、一般公募での多様な参加者の方々との4回にわたるワークショップをおこなった。

一般公募であつまったのは、皆さんそれぞれにことなる葛藤を抱えている方たちばかり。ときには慣れ親しんだ日常の当たり前を引き裂き、こちらも自分の身のあり方を考えざるを得ない外傷的になるような、表現のやりとりも見られた。

産むにまつわる話は、自身の出生、家庭環境、そうした自身の履歴から生み出された今の自分の歪みやエゴ、純粋に感じる欲望、はたまた社会的な規範から、歴史的・政治的な社会構造までが関わってくる。とても生身ではいられない。

いまふりかえっても、その場にいるその人たち同士でしか、生まれない場だったと思う。そして、こういう時間は日々の日常にはなかなかない。お茶しながら、こうした話を日頃からするのが好きで、ぼくは逆に他愛もない雑談ばかりをつづけるのがなかなか苦手だ。

最近『感情を生きる パフォーマティブ社会学へ』という本を読んだ。その中で記述されていたことが、この経験をもう一段咀嚼するためにうまい補助線をひいてくれたようにおもう。なかでも2章の小倉康嗣さんによ「生きられた経験へー社会外を『生きる』ために」がよかった。

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あたりまえを疑う。新しい価値観。この言葉は、ある種の手垢がつきすぎてしまったようにも感じる。イノベーション、という言葉を耳にする (そして自分自身も口にしてしまうこともある)ような仕事についていると、その親戚のような言葉として聞き慣れている。しかし、小倉さんは社会学を「あたりまえを疑う」ことで「生きるちから」につなげる学問=生き方だと捉えている。

パッションという言葉がある。情熱的だね、という意味でよく知られる。一方でこの言葉は両儀的で、「情熱・情念」のほかに「受苦・受難」も意味する。この言葉を、違和感や居場所のなさ、いろんな生きづらさを受け止め葛藤することが、社会や生き方をひらく情念を生み出していく、と。絶望なしには希望はない。

そして、今の自分という身体は、これまでの過去とこれからの未来のあいだの結節点でもある(3章参考)。その身体が、今の葛藤をこれまでの履歴から意味付けしえないとき、自身の枠組みを更新しないといけない。その枠組みの更新・変容が、新たないきる可能性にもなる。それが、手垢がついた「あたりまえを疑う」ことによって得られる「新しい価値観」という言葉の本義だとおもう。

そのためには、棘がいる。冒頭で紹介したプロジェクトでは、精子バンクを利用して出産した方、養子縁組の養親さん、現在不妊治療をしている最中の方、同性愛カップルの方々..といったいろんな人と言葉を交わした。当然、自分の理解を超えた外側の感覚にもたくさん出逢った。

それらは棘となって自分に刺さり続けているものへの、蓋をあけてくれる。他者の生きる力とはこういうところにある。そして、言葉をかわしていくと、自分の抱えているもやもやや葛藤は、当然かれらのものと違うし、一見比べられることなんてできないんだけど、どこか底まで降りていくと、地下水脈のように流れる水があって、流れはいっしょなんじゃないかと思う感覚がある。こうなると、自己と他者の境界はゆらぎ、別々の問題を考えているけど、いっしょにかんがえる、ということが実現する。それを、小倉さんは以下のようにまとめている。秀逸だ。

「生きられた経験」にまで降り立った時、個やカテゴリーを超えて地続きとなった地平が見えてくる。それは「生き方次元での当事者性の感受」といってもよい。たとえば「同性愛者」「障害者」「高齢者」「被災者」といったカテゴリーに属するかどうかという次元では当事者じゃなくても、生きづらさや苦しみ、あるいは快や喜びの経験のなかで自らの居場所を見出していかんとする「生き方」の次元では、誰もが当事者ではないか。
p.29

生き方の次元に降り立つと、別々のものの共有可能性、重ね合わせる可能性を帯びる。それには、他者の生きられた経験を知る、つまり彼らがどんな棘が刺さった経験をもち、それらを受け止めながら自ずから自身の棘にも想いを馳せ、語ってしまう。そんな経験。
もちろん、こうした場はいま、多くはない。でもおおくの場所で必要だとは思う。展示に足を運んでくださった方々のなかには、その場でいろんな経験をシェアしてくださった方もいた。自ずから、自らの生きられた経験に飛び込みたくなったのだろう。
そして、それをきいてまたぼくも、飛び降りていく。

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先日、すこし企業の人の前で公共について話す場面があった。その登壇依頼?というか、よんでくれた友人とも話していたが、公共とは一種、自分と他者の境界がゆらぎ、自分と他者が別々のものじゃなくて、延長のように感じられる場で、生まれるものかもしれないね、と。

そう考えると、生きられた経験に出逢う場とは、公共がパフォーマティブに生成される場なのだろう。

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