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愛とか、やさしさとかすべて

9月30日、母が自宅で息を引き取りました。中秋の名月が綺麗な日でした。
母は71歳になったばかりでした。
最期は苦しまず、安らかに、眠るように天国へ旅立ちました。
気持ちの整理のためにも、生前母がお世話になった方々への報告も兼ねて、けっこう久しぶりにnoteを書きます。

母の病気は、「副腎癌」という希少癌でした。
発症確率は100万人に1〜2人という、とても珍しい病気でした。

2020年5月23日
東京で母と暮らしている姉から連絡が来ました。3月くらいから食欲がなく、胃や背中が痛いと元気が無かったようでした。新型コロナの影響で大好きな外出も出来ず、ようやく外出出来るタイミングで近くの病院で胃カメラをとってもらいました。結果、胃ではなく腎臓に腫瘍があり、肝臓にも点々とありました。国立癌センター中央病院を紹介され、精密検査にいくことになりました。腫瘍は8センチ弱と大きく、随分前から腫瘍は出来ていたのだと思います。母は25年前に甲状腺の癌を患っていました。そのときは完全に癌を取り除くことができ、その後は血液検査などを定期的に行っていたので僕たち家族も安心してしまっていました。

6月3日
国立癌センター中央病院でCT/MRIの検査結果が出ました。左の副腎に腫瘍が7.1センチ。特殊な腫瘍でない限り「悪性」なので、腫瘍の種類を来週の検査入院で明確にするとのこと。肝臓や肺にも数えきれないほど腫瘍が飛んでいる。骨には転移しておらず綺麗。悪性腫瘍つまり「副腎癌」の場合、寿命は何もしなければ1-2ヶ月。副腎癌が難病と言われるのは、あまり自覚症状がなく気づきにくいことも理由です。見つけた頃にはもう他に転移している事が多く、手の施しようがないケースがほとんどだそうです。耳を疑い、目の前が真っ白になりました。
一昨年末に父を心筋梗塞で急に亡くしたばかりで、「母まで?なんで?」と信じられないまま日が過ぎていきました。

6月8日
家に様子を見に行った時、母が自宅で急に痛みに苦しみだしました。見たことないほど苦しむ姿に、僕も姉も気が動転しました。主治医と連絡が取れ、市販の痛み止めを飲むとおさまりました。それまで実感がなかった癌の恐怖をはじめて目の当たりにしました。

6月9日
癌センターに母と2人で検査へ。検査後に最上階のレストランで食事をしました。2人で食事をするのは本当に久しぶりで、色んな話をしました。病気であることも忘れるくらい、久々に2人で楽しい時間を過ごすことができました。結果、これが2人でした最後の食事になってしまいました。

6月10日−12日
検査入院。副腎の中のホルモン検査、画像検査、生研検査、針生検査などを行いました。

6月19日
検査結果と治療方針を聞きに姉と母と病院へ。副腎癌ステージⅣで一番進んでいる状態。そこら中に転移しているので手術で腫瘍を取り除くことはできない。抗癌剤治療で癌の進行を遅らせられる可能性はあるが、今より良くなることは無い。希少癌のため、抗癌剤も投薬できる種類が少ない。抗癌剤治療は身体にダメージを及ぼして、逆に寿命を縮めてしまう可能性もある。一度投与してみないことには効果があるか、身体にどれくらい影響が出るかわからない。
母と治療方法について何度も相談しました。一番ショックなのは母のはず。破天荒な父のおかげで色々あった、あり過ぎた津田家。それをずっと支えてきて、ようやく自分の時間が持て、旅行に行ったり友達と遊んだり好きなことを全うできるはずだった。
これからが、本当の母の人生であったのに。

まあ、抗癌剤で髪の毛抜けたり苦しんだりするのは嫌だけど、あんたたちもいきなり私が死んだら困るでしょ。

母はいつも、自分のことよりも人のことを優先したり心配して動く人でした。こんなときまで、僕らの心配なんかしなくても良いのに。
母の変わらぬ気遣いに、自宅までの帰りの電車で涙が止まりませんでした。マスクしてて良かった(涙)

色々話し合った結果、抗癌剤治療を行うことにしました。
抗癌剤治療を始めると気持ち悪くなったり、場合によって退院できなくなることもあります。入院までに家族みんなで母の好物の吉祥寺にある中華料理を食べに行きました。(↓そのときの母、僕、姉。)

7月1日
抗がん剤投与のため入院。4日間かけて抗癌剤を投与。最初の2日間は少なめで、3日4日目は4時間くらい。体調により、1週間か10日間で退院。その後、通院診察で経過観察。コロナ禍で入院中の面会は不可。
まだ母は元気で、毎日LINEで状況を教えてくれました。身体に浮腫みとお腹の凄い張り。腹水だけでなく癌で肝臓が肥大している。
病院のソーシャルワーカーさんに今後について相談。母の自宅から癌センターまで車で1時間かかってしまうため、在宅診療の病院を紹介してもらい、今後入る可能性のあるホスピス探しも始めました。

7月11日
退院。1週間後に通院し、経過を診る。
母と同居している姉のサポートに叔母(=母の姉)が神戸から来てくれることになりました。一番近くで見ている姉が一番辛いはず。僕も仕事で毎日は通えない。姉も在宅ワークと言いつつも、仕事しながら介護を1人でするのは不可能。母は4人兄弟の末っ子で、自身が3歳の頃にお母さんを病気で亡くしており、姉である叔母が母親代わりとなって2人の兄とたくましく育ってきました。そんな叔母が来てくれて本当に助かりました。母もすごく安心した様子でした。2人でテレビを観ながら色々話しているのを観て僕らも安心したりしました。

7月17日
結果を聞きに通院。抗癌剤の効果はあまり見えず、抗癌剤の副作用で貧血を起こしている。急遽輸血をすることに。輸血後は少し身体が楽そうでしたが、輸血もこのご時世で血液が不足しており、今後はかなりシビアに要不要を判断されるとのこと。

7月28日
再度通院。抗癌剤投与により効果よりも身体へのダメージが大きく、2回目の投与は断念するという判断に。「治療」という観点ではもうできることがない。ここからどれだけ生きられるか、どう生きるかを考えなくてはいけない段階になってしまいました。このとき母はもう自力で歩くことは厳しくなっていました。

そこから2ヶ月、在宅での介護が始まりました。姉と叔母、叔母の一時帰省時には僕が泊まり、母と皆で頑張りました。
ホスピスへの入院も検討しましたが、コロナで面会は週1回30分しかできないところが大半。
生きていても孤独では意味がない。」と母は言っていました。

はじめの頃はご飯も少しですが食べれていました。母の友人の方や親戚が母の好物を送ってくれたり、たくさん会いに来てくれたり。母がいかに周りの人に愛されているのかが良くわかりました。
在宅診療の先生もすごく良い先生で、母は先生が大好きでした。日に日に痛みが増し、痛み止めの量も増え、最後はモルヒネなどを処方してもらっていました。

姉も僕も、介護や癌といったものとここまで向き合うと思っていませんでした。親が弱っていく姿を見るのは本当に辛い。。
頭のどこかで、親の介護なんて自分たちがやるものではないように思っていたかもしれません。
母も「最期は施設に入るから。あんたたちにされるのは嫌。」と昔から言っていたので、そうなると思っていました。叔母は祖父の介護で慣れていたので、すごく頼りになりました。姉と僕は戸惑いの連続。おしめを変えたり、体位を変えたり、手や足のマッサージをしたり、坐薬を入れたり。

僕なんか母の身体なんて子供の頃以来触ったことがありません。息子にとって母とは触れるのも甘えるのも照れくさい存在です。母も僕に触れられるのは嫌なんじゃないかな、と勝手に思っていました。でも浮腫んでいる足のマッサージをしてあげるとすごく喜びました。背中が痛いと叫ぶ母の背中に薬を塗ってあげたり、自分にも入れたことのない坐薬を入れてあげたりと、不器用ながらも僕たちの模索介護は続きました。

そんな中でも、母の気遣いは止まりません。僕の晩ご飯の心配をしてくれたりしました。「冷凍庫にウナギが入っているから食べなさい。」とか、「〇〇のカツとじ定食がおいしいから取り寄せて食べなさい。」と、うわ言のように言うのです。もはや僕も疲れて自分の食事などどうでも良いのですが、しつこいので取り寄せて食べたフリなどをしていました。母はそれで満足気でした。

そんなこんなであっという間に8月が終わりました。正直、夏を越せると思っていなかったので「ひょっとして冬までいけるんじゃないか?」という淡い期待を持ち始めていました。

9月6日
母の71歳の誕生日会を家族みんなでしました。(正確には9月7日が誕生日。)誕生日を祝えると思っていませんでした。昨年の誕生日はみんなで小田原に旅行に行きました。1年前はあんなに元気だったのに、今は自分で起き上がることもできない。でも、孫たちに囲まれて母は本当に幸せそうでした。自分の誕生日なのに9月末の孫の誕生日プレゼントを何にするか?と僕に相談をするのです。最期まで母の気遣いは徹底していました(涙)

母は、息子の僕が言うのもなんですが綺麗な人でした。小さい頃は周りの子に「津田のママって美人だね。」と言われて鼻が高かった。(↓20代の母)

病魔と闘いながらも、母は美しかった。寝顔を見ていると「本当にもうすぐ亡くなってしまう人なのかな?」って思うくらい肌にハリがあり、「このまま病気治ってくんねえかなあ、、」と毎晩顔を眺めながら思っていました。

9月末になり、いよいよ食事も取れなくなりました。呼吸も間遠くなってきました。僕も自宅には帰らず、姉と叔母と3人で母を見守りました。色んなところが痛いようで、「痛い〜。。」と夜中に呻いたりしました。もう痛み止めを入れてどうこうなる段階ではないので、マッサージをしたり手を握ったり。親戚もたくさん駆けつけてくれて、母を励ましてくれました。あまり最近は接点がなかったけれど、親戚や家族のありがたみを毎日実感していました。

ある晩、母親が「ブダ・ペスト〜」と唸っていました。ハンガリーの首都ブダ・ペストには母と姉と3人で旅行で行ったことがありました。僕も姉も社会人になり、どこか母の行きたい国に3人で旅行に行こう!と3人で行ったのが東欧3国(ハンガリー、オーストリア、チェコ)でした。よっぽどあの旅行が楽しかったのかなあ、と嬉しい気持ちになりました。
(↓ブダ・ペストの夜景は本当に綺麗でした)

走馬灯というやつなんでしょうか、きっと色んなことを思い出しているんだろうなあと。目は開けれないけど、耳は聴こえている様子。

そんなとき「そうだ、音楽を聴かせてあげよう!」と思いつきました。そんなことを考える余裕も無かったのです。母の大好きな「パヴァロッティ」をかけてあげました。すると驚いたことに、それまで苦しそうに唸っていた母がスゥっと深く眠りだしました。
パヴァロッティすげえな、、本当に。。神様かよ。。」と一緒に聴きながら泣けてきました。(でも少し経ってから最初にかけた曲が「誰も寝てはならぬ」だったのに気づき、「いや、オカン寝てるし!まあいいか。。」と心の中でツッコミを入れました。とにかく音楽の力はすごいということです。涙)

そのままなんと3日間、母はパヴァロッティを聞きながら安らかに眠り続けました。きっとイタリア中を旅行していたのでしょう。ときおり呼吸が浅くなったりすることがありました。夜は呼吸が急に止まらないか、交代で寝ずの番をしました。

そして9月30日の夕方、母の呼吸がいよいよ細くなり、少し咳をするような感じになり、そのまま息を引き取りました。本当に苦しまずに、母はイタリア旅行をしながら最後は天国に旅立ったのです。

10月2日
家族葬を行いました。この4ヶ月の闘病中に涙も枯れ果てたかと思っていましたが、あんなに泣いた日は人生で始めてでした。

悲しみ、後悔、喪失感、寂しさ、母のために泣いてくれる人への感謝、感激、様々な感情が押し寄せてきました。
もう当分は、自分の涙も人の涙も見たくありません(苦笑)。

母は僕たちの知らないところでたくさんの人に愛情を注いでいました。こんなにもたくさんの人に本気で惜しまれ、愛されているなんて。

まだ身体が動く頃に母が皆さんに手紙を残していました。その一節です。
癌がわかった後、皆様から沢山の優しいお心遣いや深い愛情を頂き、本当に私は幸せ者だと分かりました。この先したい事ができなくなった事よりも、何百倍も何千倍もの幸福感を味わう事が出来ました。本当に有り難うございました。このかけがえの無い幸福な時間を下さった皆様に心より感謝申し上げます。皆様くれぐれも御自愛の上、幸せな人生をお送りくださいます様心よりお祈り申し上げます。

自分よりも人を愛する、やさしさで人を包み込む。
母は、そういう人でした。
自分もそういう人でありたい、本当にそういう人になりたいと、母の生き様、死に様を見て心から思いました。

結局人生の価値は、
どれだけ人を愛せたか、人にやさしくできたか
がすべてではないでしょうか。

急病で辛かった母ですが、
人を愛し、愛されて逝った最期は本当に幸せそうでした。

大切な人の死は、仲間や家族の大切さを改めて実感させてくれました。

この数ヶ月、仕事を支えてくれた会社のみんな、本当にありがとう。4月から社長になった矢先にバタバタして、本当に申し訳なかったけど、明るく前向きなみんながいてくれたから、僕も前をむけました。

パートナー企業の方にも何人かの方には打ち明けていました。本当に親身になって心配や応援をしてくれました、本当に救われました。ありがとうございました。仕事でお返しします。

友人たちには自粛期間で会う機会も少なくてあまり話せなかったけど、これから僕を元気付けに飲みに行ってくださいね。

そして家族や親戚の皆さん、母の友人の皆さん、母が自分の死を通じて家族を今まで以上に強く結びつけてくれました。母の分まで家族や親族に今まで以上に愛情を注いでいこうと思います。

長文お付き合いいただきまして、ありがとうございました。
癌や病気は、早期発見が鍵です。
余計なお世話かもしれませんが、皆さんの大切な人に「体調どう?」「検査行ってみたら?」と声がけしてみてください。ひょっとしたら、それで何人かの方の命が救われるかもしれません。
また、希少癌の研究が1日も早く進み、より多くの方の命が救われることを切に願います。
母にとって、自分の死をきっかけに誰かを救うことになれば、それほど嬉しいことはないと思います。

色々とご心配をおかけしました。
母の死を乗り越え、これからの人生感がまた変わりそうですが、
周りの人を今まで以上にもっと支え、母のように大きな愛で包んでいけるような人になれるよう精進します。これからもどうぞよろしくお願いします。

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