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トラウマっていうんじゃ・・[前編]

【ラジオ体操80日目】

こんにちは。
幼少期には、たくさんの習い事をしていたので、あの頃を思い出すと今より忙しかったんじゃないかなと思っているコマリストです。


今日は『青春時代』をテーマに書いていきたいと思います。部活動の振り返りになるのですが、かなり長くなりそうなので2日に分けて書いていこうと思ってます。


皆さん、学生時代は何か部活動をやっていたでしょうか?


当時のことを思い出すと、今では考えられないほど厳しい指導が当たり前に行われていたような気がします。


現代の子どもたちに部活動の様子を聞いてみると、顧問の先生やコーチの立場が、圧倒的に弱くなっていて本当に驚かされます。


”勝つこと”を意識した厳しい指導
”スポーツを楽しむこと”を意識した優しい指導
どちらが学びの多い形なんですかね。


ちなみに、私自身は中学生時代にバレーボール部に所属していましたが、なかなかに厳しい部活で、最後の大会が終わって燃え尽き症候群となった私は、高校では部活に所属せず、”アルバイト”に勤しんでいました。


どれほど厳しかったのか?という話はもちろんですが、この部活動から何を得ることができたと思っているのか、そのあたりについて書いていきたいなと思います。

バスケ部からバレー部へ

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先ほど、バレー部に所属していたと書きましたが、実は最初からバレー部だったわけではありません。


小学生時代にテニスとバレーを経験していた私は、中学生になったらバスケがしたい!と思っていたんです。
#先生バスケがしたいです


ということで、入学してすぐにバスケ部に入部して、初心者として活動をしていたんですが、これが部活か!と感動して、部活の時間が楽しみで仕方なかったことを覚えています。


では、なぜバレー部に移籍したのかというと、中学1年生の体育の授業でバレーボールがあったんです。その時の体育担当教師が、当時女バレ顧問のB先生。


このB先生が本当にしつこい男で、本当に毎日毎日勧誘を受けることになります。3か月ほど勧誘を受け続けたことで、さすがに心が折れた私は、泣く泣くバレー部に転籍します。


これが、一生の思い出とトラウマを残すきっかけの始まりです(笑)

鬼監督とパイプ椅子

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さて、転籍したバレー部はどうだったかというと、入部してしばらくの間はかなり気楽でした。


20名以上いる新入部員(同級生)の指導を頼まれて、パス練習などの基礎トレーニングを楽しくやっていたんです。


たまに、レギュラーの相手をするBチームに入って、試合形式の練習に参加することもありましたが、初心者が多いBチームの中ではそれなりに動けたので、たくさん褒められて調子に乗っていたかな。
#これが罠だったのか


あ、ちなみに私の中学校のバレー部は地区大会で上位になって、県大会ベスト8くらいという中レベルのチームでした。


ただし、顧問は・・・
名監督と言えるかはわかりませんが、実績をしっかり残してきている人で、何より”鬼監督”として有名でした。


この顧問の鬼監督ぶりを認識したのは、私が入部してから3か月ほど経過した時点で行われた夏の大会です。


地区大会のコート上に”パイプ椅子”が飛んでくるって、想像できますか?


地区大会初戦の相手は、お世辞にも競合とは言えないチームでした。そのチームとの試合に臨むにあたって、レギュラー陣に出されたオーダーは”1点も与えるな”というもの。


で、こちらのミス(お見合いだったかな)で相手に点数が入ったその瞬間、怒り狂った監督の隣のパイプイスが、こちらのチームのコートの真ん中に飛んできたんです。


もうね、会場中凍り付きましたよねw
静かになった会場中に響き渡る監督の怒声。

”てめぇら、何やってんだ!”


すぐにタイムアウトが取られ、試合中にもかかわらずレギュラー全員が監督に謝罪をしに行くという始末。


今これをやったら、監督がレッドカードで退場させられると思います。


ま、こんな監督の下で、そこから約2年間を過ごしていくことになりますよ。という当時の私がどんな気分だったのかは、想像に任せます。

熾烈なレギュラー争い

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さて、パイプ椅子の一件で、どんな雰囲気なのかは掴んでいただけたと思いますが、実はこのバレー部は”学校イチ厳しい”ことで有名だったんです。
#先に教えてほしかった


その練習はというと、平日は朝5時30分から、学校裏にある100m以上の坂道を数十本ダッシュするところから始まり、全ての休み時間に部室前でパス練習、放課後は22時まで毎日練習という感じ。


ちなみに、土日になると月に2回ほど県内外のチームや高校生と練習試合が組まれ、夏休みなどの長期休暇はいろんな県の大会にエントリーして、遠征試合があるので、ほぼ休みなどありません。


なおかつ、練習中もあの鬼監督が目を光らせていて、パイプ椅子はもちろん、シューズを投げつけられた上で”拾って来いよ!”と怒られる始末。


こんな感じなので、毎年20名強の新入部員がいても、3年まで残るのは平均で6名程度。レギュラーに入れなかった部員は、比較的簡単に辞めていきます。


しかも、レギュラーは随時入れ替わるシステムなので、ひと時も気を抜くことはできません。私も、2年生からレギュラー入りを果たしてから3~4回、外されたことがあります。


こんな感じの厳しい状況を最後の夏の大会まで継続していくわけですから、そりゃ強くなりますよね。


さて、私は2年生となり、先輩の最後の大会となる夏の大会が終わります。ここからは、いよいよ私たちの世代が中心となるチームが、約一年後の夏の大会までどうやって過ごしていくのかという話になるのですが、長くなったので後半に譲ろうと思います。

まとめ

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今日は『青春時代』というテーマで、私が中学生時代に所属していたバレー部での活動について書いてきました。


なかなかに厳しい部活だということが伝わったでしょうか。間違いなく今の時代には批判が多いであろう指導内容がたくさん出てきましたが、私個人としては”良い経験だった”と思っています。


あの頃の追い込まれた毎日と比較すれば、社会人になってからの日々というのは、そのほとんどが気楽な状態です。


もちろん、自分で会社を立ち上げたり、何年も報われない挑戦を続けていたりという期間はしんどいこともありました。けどね、しんどい中でも楽しみながら取り組んでいたので、”あの頃”ほど追い詰められてないんですよね。
#どんだけ追い詰められてたんだ


今でも、この部活に所属していた頃の夢を見ることが幾度となくあります。その夢の中では、コートに立ちながら”監督の目ばかり気にしている自分”が登場します。


これは、トラウマになってんのかな?と思いつつ、目が覚めると”やってやる!”という強い気持ちになれるので、悪い夢ではありません。
#ちなみにバレーは大好きです


スポーツから学べる事。人それぞれだと思いますが、私にとってスポーツと言えば”中学時代の部活”が必ず中心に来ます。皆さんにもスポーツに関する思い出はありますか?

じゃ、またね!


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