見出し画像

キリスト教とは


神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである。
ヨハネ3章16節       
                                        
 キリスト教を一言で表すとするならば、それは「愛」です。キリスト教の神を一言で表すならば、それは「愛」です。聖書には次のような言葉があります。「いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。」ヨハネの手紙第一4章12節
 
 歴史の中で、キリスト教は随分複雑なものとなってしまいました。様々な原理原則により人を縛る道具にされることもあれば、国家や組織と結びつき、人を痛めつける大義名分にされることもあります。今もキリスト教世界には様々な歪が存在しています。
 しかし、本来キリスト教とは、とても単純で、全ての人が経験したり、欲したりしているものなのです。宗教ではありません。愛です。
 神は愛です。そして神は、愛するために人を造られました。そしてまた、ひとは神のかたちに、神の似姿に造られたので、人も愛することのできる存在となりました。
 私たちは、人とのつながりを欲して生きる存在です。愛を与えられると、人は人を愛するようになります。反対に、愛を与えられなければ、人は愛情に飢えた存在となります。犯罪、戦争、世の中の問題は、この愛の飢餓状態から起こります。
 私たちは皆、親から生まれます。子は親の愛を必要とします。
聖書には、神が私たちの父親であると書かれています。私たちは、神の子であるがゆえ、愛されています。本来、親は子どもが自分の子供であるというだけで愛します。神は愛の源なので、私たちを無条件で愛し、その子に必要な素晴らしいものを全て与えたいと願っています。神は人格をもって、私たちの全てを知り、愛しています。
 
 愛とは奪うものではなく与えるものです。神の愛は一つの形、一人の人間の形をとって、世に現れました。それがイエス・キリストです。
 「愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙第一4章7-10節)」

 私たちには、愛から外れた性質があります。それが罪です。罪は神との断絶を引き起こします。聖書の初め、創世記には、人が神から息を吹きかけられ、いのちが与えられたことが記されています。神から与えられたいのちは、滅びることの無い、永遠のいのちでした。人には肉体だけでなく、その内側に心である魂と、霊があります。神のいのちは肉体だけでなく、人を内側から生かすいのちでした。
 そのいのちは、人に罪が入った時に断たれました。神から人を引き離そうとしたサタンの嘘を人が信じた瞬間に、人に罪が入り、人に死が訪れました。創造のはじめ、エデンの園にはいのちの木と善悪の知識の木が植えられていました。神は人に、「善悪の知識の木からは食べてはならない、その木から食べる時、あなたは必ず死ぬ」と語っていました。しかし蛇の姿をしたサタンは人に「死ぬことはない」と語り、人は神を疑い、サタンの嘘を信じました。その瞬間、人は神を信頼することができなくなりました。そして人に死が入り、人は肉体的にだけでなく、霊的に死んだ者となりました。
 
 そのいのちを復活させるために、神は人の罪を贖う存在として、ご自身の御子イエス・キリストを世に贈られました。もしある親が、あなたの子供は罪を犯したので、裁きに遭って苦しむために地獄へと送られなければならないと言われたならば、その子を本当に愛している親はこう言うのではないでしょうか。「私が代わりに行って、代わりに罰を受け、子供の代わりに苦しみます。だから、私の子供を救ってください。」

 人は皆神様の子供です。神様はわが子を愛する愛ゆえにご自身そのものであるキリストが人の罪の代価を払うようになさったのです。キリストは人の罪を担って十字架に掛かりました。イエス・キリストは十字架刑で息を引き取ってから、三日後に復活し、世の終わりまで私たちと共におられることを約束しました。今もキリストは生き、働いています。キリストは2000年前に死んだ人ではなく、今、生きているのです。
 キリストを救い主として信じることで、神は私たちに赦しと永遠のいのちを与える道を開いてくださいました。人が人に与えることができる最も尊いものは、自らのいのちです。そのいのちを神は私たちに惜しみなく与えてくださったのです。キリストを信じることによって私たちには決して滅びることの無い永遠のいのちが与えられるのです。神はキリストによって、自らの愛を示されました。
 キリストは自由を与えるために遣わされた方でした。キリストは人を縛っていたあらゆる決まり事から人を解放しました。イエス・キリストが人に伝えた戒めは、たった一つでした。

 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネの福音書15章12節)」
 
 神の愛を知って、人を愛して生きていく事が、神が求めていることです。キリスト教の教えは、たった一つ、「愛」です。神から愛されていることを知り、愛することです。
 
 神は愛です。それゆえ、私たちが一人として滅びることなく永遠のいのちを得ることができるよう、神はご自身の大切な御子、キリストを世に贈られました。
 キリストは、神の愛を示す一つの例え話をしました。親が生きているうちに遺産をねだり、散々放蕩をした息子の話です。その息子は遺産を受け取って家から離れ、ついに受け取った財産を使い切ってしまいました。生活に苦しくなった息子は、「父に謝って、父のもとへ帰ろう」と思い立ち、父のもとへと戻ります。父親は戻ってきた息子を一切責めることなく、両手を広げて迎えます。父親は息子が戻ってきた喜びで彼を抱きしめ、祝宴を開きます。
 これが、神の愛です。キリストは愛する弟子全員の足を洗いました。神は高いところからただ見下ろしているのではありません。自分を低くして、愛する者に仕える姿が、神の姿なのです。
 キリスト教とは、愛です。神が人に伝えているのは、愛です。神は愛です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?