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信長も考えた?幻の足利16代将軍「義尋」の誕生

 新聞にずっと記事を書いてきた人間が今さら気付くのはおかしいのだが、初めて自分で本を出してみて、自分の文章を読んでくれることの有難さを知った。

 新聞は多くの記者が書いた文章の集合体で、総合力で伝える媒体だが、単著は自分ひとりの力が読んでもらえるかどうかを決める。

 なのに、毎日会っているわけでもない友人先輩だけでなく、見ず知らずの人まで本を買ったり図書館で借りたりして最後まで読んでくれている。感想を書いた手紙をくれたり、通販サイトにレビューを書いてくれたりする人もいる。いい評価ではなくても、参考になる。実に有難い。

 ということで、自分もこれまで以上に読んだ本の紹介を増やそうと思う。今回は東大史料編纂所画像史料解析センター准教授の黒嶋敏さんの近著『天下人と二人の将軍』。読んでみて、いくつも目からウロコが落ちた。

秀吉と三法師

三法師を抱いて信長の葬儀に出席した秀吉(『大日本歴史錦繪』国立国会図書館蔵)

英雄三傑の権力簒奪戦

 乱世では後継者がひと次々とその地位を失う。豊臣秀吉(1537〜98)は織田信長(1534〜82)の孫の三法師、のちの織田秀信(1580〜1605)を織田家の後継に据えながら、岐阜中納言にとどめ、自らは関白になった。

 徳川家康(1543〜1616)は臨終の床に就いた秀吉に、豊臣家への忠誠を誓いながら、嫡子の豊臣秀頼(1593〜1615)から天下を奪い取り、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした。

 秀吉はあの世で家康の裏切りに臍をかんだだろうが、自分も秀信を冷遇した過去がある。秀吉と家康が、それぞれの嫡子から天下を簒奪した歴史でもあることは、多くの人が知っている。

 では、信長はどうだったのか。信長は室町幕府15代将軍の足利義昭(1537〜97)を京都から追放して政権を奪ったが、義昭の命は奪っていないし、義昭に代わって将軍職に就いたわけでもない。しかも、義昭の嫡子は三法師や秀頼ほど知られていないから、嫡子から天下を簒奪したイメージもなかった。

 しかし、信長も秀吉、家康と同じことをやっていた。義昭には嫡子、足利義尋(1572〜1605)がいて、黒嶋さんは足利16代将軍に就く可能性があった、と記している。

信長も義昭の子を将軍にしようとした?

 義尋は庶出だったが、父の義昭に正室はおらず、将軍家の後嗣として養育された。義昭が槇島城の戦いで信長に敗れて追放される際、義尋は人質として信長に預けられ、わずか1歳で出家させられている。

 しかし、「公家はこの出来事を大樹(将軍)若公御上洛」と認識していたという史料がある。信長が義尋を義昭に代わって16代将軍に擁立し、当面は幕府の存続を明確にし、やがて信長がその上位に立つ構想を持っていたとしてもおかしくない。

 義昭の引き取り交渉をしていた安国寺恵瓊(1539?〜1600)が毛利氏に「義昭が京都からいなくなったからには、来年の新年のあいさつは義尋と信長にするべきだ」と伝えたという記録(『吉川家文書』)もある。

 信長も奥州の伊達輝宗(1544〜85)にあてた書状で「義昭との対立を解くために上洛したところ、義昭は若公(義尋)を渡して京都を退去した」と記している。義尋を手中に収めていることを知らせたのは、義昭追放に対する反応次第では、義尋を擁立することを考えていたからかもしれない。

 義昭が京都の拠点としていた二条城をしばらく破却せずに管理している。黒嶋さんは、信長が義昭が京都に戻る可能性と、義尋が将軍に就く選択肢を残していたのではないか、とみている。

義昭も代替わりを意識していた

 黒嶋さんは、一方の義昭も、人質として預けた義尋が信長によって16代将軍になることを期待していたのではないか、という。

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足利義晴(京都市立芸術大学付属資料館臓)
 

 義昭は父の12代将軍、足利義晴(1511〜50)の政治を手本としていたとみられるが、義晴は天文五年(1536)に嫡男・菊幢丸(のちの13代将軍義輝)が生まれると、すぐに「御代」を譲って側近をつけ、形式的に隠居することで幕府政治の刷新と存続を図っているという。

 信長に追放された後の義昭は天正2年(1574)の段階では反信長の御内書を乱発するような行動をしていない。自身の帰洛を図り、秀吉と交渉していたためと思っていたが、信長が嫡子を将軍にすることを期待していたとすれば腑に落ちる。

 秀吉との交渉で義昭は、和解の条件として信長側に人質を出すように求め、交渉は決裂しているが、追放された側からの上から目線の要求も、義尋と同じ立場の人間を得ようとにしたのかもしれない。

官位が義昭を超え、安土に城割り

 長篠の戦いに勝利した信長は天正3年(1576)に家督を長男の信忠(1557〜82)に譲り、自らは右近衛大将うこのえたいしょうに補任された。右近衛大将は歴代の足利将軍が補任される官位だが、義昭は補任されていない。

旧二条城 (2)

今の二条城より南にあった旧二条城(義昭居館)跡

 この時点で義昭を超越した信長は、翌天正4年(1577)から安土城の築城を本格化させ、二条城を破却して部材を安土城に移す(城割り)。もはや京都に足利将軍を迎えることはない、というだけでなく、安土こそこれからの権力の中枢という意思表示だろう。

 これによって、義尋の16代将軍就任は完全に潰えた。天正4年から義昭が諸国の大名に反信長の御内書を乱発するようになるのも、義尋の16代将軍就任が完全に消えたためではないか、というのが黒嶋さんの見立てだ。

 一連の動きは秀吉が秀信の官位を越え、家康と秀頼の主従関係が逆転していった経緯と大筋で重なる。秀吉や家康は前権力の断絶と新権力への継承、前政権の残滓を除去する過程で、信長の前例を参考にしたのかもしれない。

将軍になれなかった義尋は

 僧になった義尋は大乗院門跡から興福寺の大僧正になり、2人の子をもうけている。2人の子はそれぞれ実相院門跡と円満院門跡の大僧正となったが、大僧正は女人を断つのが決まりなため、足利家嫡流は断絶した。

 義尋は大僧正なのに子がいたのが不思議だが、『永山氏系図』によると、僧でありながら子供を儲けた義尋は興福寺を追い出され、還俗して足利高山たかやまと名乗ったという。このへんは父の義昭の生涯と重なる。義昭が父、義晴を手本としたように、義尋も義昭を手本としたのかもしれない。

 ちなみに義尋の正室で2人の子の母は、大河ドラマ「麒麟がくる」にも登場する近衛前久(1536〜1612)の孫、古市胤子(1583〜1658)だ。胤子は義尋と死別後に後陽成天皇(1586〜1611)に召され、3人の子をもうけているが、子どもたちは天皇にも、将軍にもなっていない。

参考文献

黒嶋敏『天下人と二人の将軍 信長と足利義輝・義昭』(2020、平凡社)

#足利義昭 #足利義尋 #織田信長

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