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『麒麟がくる』でようやく汚名を晴らせるか 松永弾正久秀「三大悪行」の誤解

 再開後のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』で、吉田鋼太郎さんが演じる松永久秀(1508〜77)のこれまでの「梟雄」のイメージが大きく変わりつつある。

 9月20日放送回では向井理さんが演じる足利13代将軍義輝(1536〜65)が、永禄8年(1565)に三好三人衆らに殺害されるクーデター「永禄の変」が描かれた。しかし、これまでの大河ドラマのように、久秀を将軍義輝暗殺の首謀者として描かなかった。

義輝が暗殺された後に滝藤賢一さんが演じる義輝の弟の覚慶(足利義昭、1537〜97)を匿うなど、三好三人衆とは別の動きをしたことも、これまでの大河ドラマではきちんと描かれなかった。

絵本石山軍記

細川藤孝らに従って興福寺を出る覚慶(『絵本石山軍記』国立国会図書館蔵)
 

しかし、最近の研究では、『麒麟がくる』が描く久秀は史実に近いとみられている。

久秀=悪人のイメージは『常山紀談』から

 久秀に梟雄のイメージがついたのは、江戸時代の儒学者、湯浅常山(1708〜81)の『常山紀談』にある以下の話が元になっている。

徳川家康(1543〜1616)が信長を訪ねて会談した時、たまたま信長の傍に久秀がいた。信長は家康に「この男は、平然と3つの悪事をした」と紹介した。3つの悪事とは、

・将軍を暗殺した

・主君とその子らを死に追い込んだ

・東大寺の大仏を焼き払った

 紹介された久秀は面目を失ったという。だが、そもそも信長が家康に久秀を紹介したという逸話自体が創作だろう。その内容についてはとても信じられない。3つの悪事について、個別に検証してみよう。

『絵本石山軍記『国立国会図書館蔵2

二条御所で三好勢に襲われる義輝(『絵本石山軍記『国立国会図書館蔵)

将軍暗殺時に久秀にはアリバイあり 

 まず、剣豪将軍の異名で有名な義輝を暗殺したのは三好義継(1549〜73)を中心とする三好勢と久秀の息子である松永久通(1543〜77)だった。久秀は永禄の変当時は大和(奈良県)にいて、この事件には直接加わっていない。

 実行犯でなくても、息子の久通に暗殺を指示していた疑いはある。しかし、久通や三好勢は覚慶を討とうとしたとされる一方で、久秀は覚慶を助けている。将軍家をめぐる久秀と久通の考え方は異なっていた可能性が高い。

 そもそも永禄の変は、三好・松永は二条御所を取り囲んで将軍に政策や人事の変更を申し入れる「御所巻」をしていたところ、取次の不手際や行き違いが生じ、本来は穏便に済むはずだった陳情が武力衝突に発展して起きたとする説もある。これが本当なら暗殺計画そのものがなかったわけで、久秀黒幕説はあり得ないことになる。

 主君の三好長慶(1522〜64)の嫡男だった義興(1542〜63)と、弟の安宅冬康(1528?〜64)を死に追い込んだ、というのも誤り。最後まで忠実な家臣として仕えた。『麒麟がくる』で描かれている通りだ。

三好長慶像(南宗寺)

   三好長慶像(南宗寺)

 義興は確かに長慶より先に亡くなっており、死因については義興が久秀の奸悪を見抜いて排除しようとしたため、逆に久秀によって毒殺されたという噂が立った。だが、一次史料による裏付けはなく、逆に久秀が義興の病状を心配し、三好家への忠誠を誓った書状は残っている。

 一次史料で心配していても久秀の毒殺を否定はできないが、久秀毒殺説のもとになった『足利季世記』や『続応仁後記』も、「毒殺の風聞(うわさ)があった」と記載しているだけで、久秀による毒殺とも言っていない。

 『足利季世記』は、毒殺の風聞について「如何なる故ありしにや」と疑問を呈し、『続応仁後記』は久秀毒殺説を、久秀の実力を妬んだ者による根拠のない「雑説」と断定している。

 義興の死の翌年の永禄7年(1564)、長慶は弟の安宅冬康(1528?〜64)を飯盛山城に呼び出して誅殺した。これも久秀の讒言に乗せられたという説があるが、この頃の長慶は義興の死で心身に異常を来たし、思慮を失っていたという(『足利季世記』)。

 弟を誅殺した直後に長慶は病死したが、これを「久秀に心身ともに追い込まれたための病死」とするのは、久秀にはあまりに酷な話ではないか。

大仏を焼いたのは偶発的な“事故”

 義昭を守る方向で動いた久秀は長慶の跡を継いだ義継と手を組み、三好一族や重臣(三好三人衆)と対立する。両者の間で起きたのが、東大寺大仏殿が焼け落ちた永禄10年(1567)の「大仏殿の戦い」だった。

奈良大仏

 久秀が三人衆を討ち取るべく大仏殿に火をかけたとされるが、『大和軍記』は「三好軍の鉄砲の火薬の火が燃え移った」とあり、『足利季世記』も「大仏殿周囲にあった三好軍の小屋に誤って火がついた」としており、久秀が火をかけた証拠はない。

 これだけで火をかけたのは久秀ではないと断定はできないが、どちらが火をかけたにしろ、原因は偶発的な失火だった可能性が高い。仏教に敬意を表するなら大仏殿近くを戦場にすること自体控えるべきだったことは言うまでもないが、治承4年(1181)に平重衡(1158〜85)によって焼かれた時のように、南都の仏教勢力を標的にした焼き討ちではなかったことは間違いなさそうだ。

 つけ加えれば、その後、信長に仕えた久秀は反逆し、最期は信長が所望した「平蜘蛛の釜」を抱いて信貴山城天主で爆死したことになっているが、これも後世の創作と見られている。つまり、久秀を梟雄とするほぼすべての逸話が後世の創作か、かなり「盛った」俗説とみられる。

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平蜘蛛の釜(文化遺産オンライン)

なぜ江戸時代に悪役になったのか

 『常山紀談』の作者、湯浅常山(1708〜81)が、久秀をことさらに悪役に仕立てたのは、江戸時代中期の身分社会の動揺と関係があるという見方がある。

 この頃は柳沢吉保(1658〜1714)ら側用人が家柄を無視して抜擢され、巷では大名や旗本を差し置いて豪商が幅をきかせていた。儒学者の常山は下剋上で台頭した久秀を使って、成り上がり者は悪事を働くというイメージを形成したかったのではないか。

 それにしてもかわいそうなのは、死後100年以上経過してから悪役とされた久秀だ。3つの悪事はいずれも根拠のない噂に基いているが、だからこそやっていないことを完全否定するのは非常に難しい。

 もし生前にこんなうわさが出たら、久秀は「モリカケ問題」でも言われた「悪魔の証明」に苦しむことになっただろう。『麒麟がくる』で名誉回復ができるか、今後のドラマの展開に一番期待しているのは、あの世の久秀かもしれない。


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