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第9章 『生きるための日本史』


『生きるための日本史』(青灯社、2021)の書評文


 同書は、安冨さんの集大成であり、同時に思想のエッセンスを詰め込んだ内容となっています。ただ、であるからこそ、中身が詰まっているとも云えます。
 同書を理解する上で、参考になるのは「否定神学」だと思います。
 「否定神学」とは、古代キリスト教の神学の一つであり、もっとも古いタイプの神学的思考とも云えます。
 どう云う論理の構造をしているかと云いますと、「神とは〜ではない」と云う「否定」からはじまる説明を行ないます。要するに、神は無限な存在であるから、有限な存在の人間が認識するのは困難と云う発想があるわけです。

 一応、「否定神学」をもっともよく掲げているのは、東方正教会と云うことになっていますが、キリスト教に限らず、「物事の本質は言語化されない」と云う思考様式は古今東西存在します。
 例えば、国学を大成した江戸時代の思想家の本居宣長の「やまと魂」も同様の構造を持っています。
 宣長は、「やまと魂」とは「仏教や儒教が入って来る前の古代日本の精神」を指すのですが、具体的に言語化できるかと云うと、そう云うわけではありません。むしろ、一生懸命言葉で定義したり言語化しようとするのは、「賢しら」であり、それこそが「仏教や儒教」が持っている「漢意(からごころ)」だと云います。要するに、「やまと魂」を知るのには、「漢意」を排除した上で、「漢意」ではないものこそが「やまと魂」だと云うことです。なので、宣長は古事記と日本書紀と云う「漢意」が入る前の時代を描いた、もっとも古い時代の書物の研究を行なったわけです。

 あるいは、古代中国の思想家の荘子も「物事の本質は言語化されない」と述べています。荘子は「万物斉同」、つまり「この世のすべてのは皆等しい」と考え、人間の「善悪」「美醜」は意味がないと考えました。むしろ、そのように言語化して物事の差別化を行なうと、「道」を知ることはできないと述べています。

 荘子は「胡蝶の夢」の故事が有名ですが、この故事が云わんとしていることは、「人間である荘周」と「胡蝶」を分けきることはできず、むしろ「荘周が胡蝶」になること」と「胡蝶が荘周になること」は 不思議ではなく、すべてのものは等しいがゆえに変化していくと考えたわけです。それは、「荘周」や「胡蝶」と云う確固たる存在がない、と認識することで成り立つと云えます。

 同書の第一章では、バートランド・ラッセルとウィトゲンシュタインの論理をめぐる論争から、安冨さんは「わからないもの」「語り得ぬもの」である「神秘」にこそ世界の本質があり、「合理的な神秘主義」に基づいて思索をすることがもっとも合理的だと述べていますが、似たような思索は人類の歴史では珍しくありません。むしろ、安冨さんは同書で極めて普遍的な思考に到達したと云えます。
 
 もっとも、「否定神学」は現代思想の分野では、長らく否定的に扱われていきました。理由は、「物事の本質は〜ではない」と云う論理では、「物事の本質」を語るには「物事の本質ではないもの」を提示しなくてはならず、それはともすると、反対のものなら何でも良いと云う、無節操な思想になるのではないか、と云う批判がありました。
 例えば、以前、紹介しました梶谷懐さんの『日本と中国、「脱近代」の誘惑』で、現代の日本や中国で本来固有にあったとされる「アジア的なもの」は、「近代的ではないもの」「西洋的ではないもの」によってしか成り立たないのではないか、と述べています。それは、ちょうど西洋の民主主義やリベラリズム、資本主義があることで、その反対の思想として中国の毛沢東崇拝や日本の八紘一宇が成り立つと云えます。 

 上記のような「否定神学的なもの」への批判は、フランスの思想家・ジャック・デリダや彼の影響を受けた東浩紀さんが指摘したことで、かなり一般的になりました。確かに、「否定神学」のような「神秘」はなかなか言語化できないものがあります。なので、平成時代の論壇は「否定神学的なもの」への批判はかなりありました。「語り得ないもの」や「神秘」はともすると、上記の「毛沢東崇拝」や「八紘一宇」のような思想を招き寄せるとされたわけです。ちょうど、東方正教会の「神」のように「語り得ないもの」や「神秘」が絶対的な存在化すると云う危惧があったわけです。なお、東方正教会で「神」を知るには「瞑想」が重要となります。
 もっとも、そのような「否定神学」を批判した先にあったのは何でもありな「相対主義」ではないか、と云う批判もありました。

 なので、同書で安富さんが提示したように、「私」を区切りにして世界を認識する「私の世界史」と云うのは、非常に合理的と云えます。人間はやはり自分と直接関わらないものはどうしても「観念的」になりがちです。安冨さんは「神」の代わりに「私」を中心に据えることで、思索を行えるのではないか、と提示したと云えます。もちろん、その「私」は近代哲学が想定している「自我」や「個人」ではなく、「問題を抱えた私」と云うのが肝です。そして、同時に「問題を抱えた私」と「世界」がどのように関わっているのかをも視野に入れることになります。

 安冨さんが同書で「立場主義」は「家主義が変質したもの」と分析し、西南戦争を起こした西郷隆盛を「最後の家主義者」(151頁)と述べていました。私は一連の安冨さんの分析を読んで、日本の右翼は「家主義的なもの」への憧憬があったのではないか、と思いました。日本の右翼の源流は、福岡出身の頭山満と云う人物にあるのですが、彼は西南戦争に従軍しようとしたのですが、その前に投獄され、戦闘に参加できませんでした。その後、頭山は西郷の意志を継ぐため、発足させたのが玄洋社と云う政治団体で、この玄洋社がもっとも初期の右翼団体とされています。明治時代の右翼は頭山のような旧士族が多く、当然彼らの多くは家主義者でした。そのため、彼らは「家」の中心であった「家長」に選挙権を与えるべきだと考え、同時に「家」のトップである「皇室」によって平等な社会ができると訴えていました。もっとも、大正から昭和になると、右翼の中でも世代交代が起こり、玄洋社よりも過激な形で社会変革を狙うようになるのですが、やはり西郷隆盛への敬意は持ち続けました。むしろ、西郷を革命家として英雄視していました。
 安冨さんは、近代現代日本は家主義が衰退すると同時に、立場主義が隆盛し、現代は立場主義の崩壊期だと述べています。私がそれで思ったのは、日本の右翼の歴史もそれと重なるなと思いました。参考になる映画が二つあります。
 一つは、二・二六事件の青年将校たちの精神的指導者とされた北一輝を主人公にした「戒厳令」です。


 同作は、半世紀近く前の作品で、前提知識がないと理解するのが難しい場面がかなりあるのですが、主人公の北は「家主義者」のように振る舞っていると、理解しやすくなります。北は結婚しているのですが、子どもは養子で、実の子どもはいません。彼は革命を起こそうとしているのですが、同時に明治天皇を崇拝しています。そうした矛盾を抱えながら、青年将校たちに革命をけしかける姿はある種不気味なものがあります。
 二つ目は、おそらくロッキード事件をもとに当時の政界のフィクサーとされた児玉誉士夫をモデルにしたと思われる「日本の黒幕(フィクサー)」です。

 
 主人公は、右翼の活動家で政界のフィクサーの山岡邦盟と云う人物です。彼は戦前から活動していた右翼で、戦後に政界の黒幕となります。山岡も「家主義」のように振る舞っているのですが、非常に歪な家庭を持っています。彼は、権力を持ち、ありとあらゆる暴力を行使しているのですが、家族とはうまく行っていません。むしろ、うまく行かないから黒幕として前のめりになっていると云えます。
 上記の二作の主人公たちに共通しているのは、「家主義」と「立場主義」を混ぜている、あるいは「立場主義」を使いながら「家主義」に回帰しようとしているとも云えます。二人とも軍隊のようなものを使いながらも、自分は「家主義者」のように振る舞っています。そして、家族とはうまく行っていません。当然、最後は破綻するのですが、二人が破綻したのは「家主義」が「立場主義」に取って代わられた時代を象徴していると云えます。
 安冨さんは、「家主義」に愛着を持っていた森鴎外の文学作品が、「立場主義」に力点を置いた夏目漱石よりもわからないと指摘していましたが(142−145頁)、北や山岡の行動に矛盾があるのは「家主義」に対して愛着があったからと云えるかもしれません。だから、ある面では、滑稽とも思えるような言動を二人とも行なっています。安冨さんは「立場主義」も今世紀の半ばごろには、跡形もなく消滅すると予想していますが、もしそうなると、後世の人間からは、現代の日本人も北や山岡のように異様に映るかもしれません。
 また、これは実際に作品を視聴して確認していただきたいのですが、北と山岡は「神秘的な神秘主義者」でもあります。北も山岡も自宅に怪しげな祭壇を持ち、神主のような格好をし、「神秘的な言語」で「神秘」を語ろうとします。二人とも自分は「神秘」を語れると思うからこそ、「神秘」の力を人為的に起こして政治的な変革ができると確信しているわけです。安冨さんから云わせれば、「狂気」と云うことになります。ある意味では、両作とも「神秘的な神秘主義者」が起こす「狂気」を描いていると云えます。
 もし現在が「立場主義」の崩壊期なのでしたら、北や山岡のような「狂気」が現れてもおかしくはありません。


 ある意味では、その打開策として、同書の第四章で、安冨さんは「無縁」について論述しているのだと思います。
 この章を読んで理解が深まったのは、以前紹介しましたイタリア映画「修道士は沈黙する」です。
 同作は、「神秘的な合理主義」と「合理的な神秘主義」の対立を描いたとも云えます。物語の鍵を握るIMFの理事のロシェはエコノミストであり、彼は経済学的な知見をもとに絶大な権力を握ります。なので、物語はG8の財務大臣たちがロシェの誕生日を祝う場面からはじまります。ロシェは経済学的な知見で「合理的」に「神秘」を語られと考えています。彼は「神秘的な合理主義者」と云えます。
 一方で、主人公のサルスは修道士で、ロシェから「告解」を頼まれます。彼の所属しているカルトジオ会は11世紀から続く古い修道会で、沈黙の誓願を立てているため、決して多く語りません。同作を日本で配給したミモザフィルムズは、実際のカルトジオ会の修道士たちの生活を描いたドキュメンタリー「大いなる沈黙へ」と云う作品も配給しています。現実の修道院では、修道士たちは言葉をほとんど交わしていません。一部の例外的な場面を除いて会話すらしていません。

 
 サルスは招待されたホテルでも修道院にいるときと同様に沈黙を続けます。彼はやがて殺人の容疑をかけられますが、それでも沈黙を続けます。やがて、サルスはG8の財務大臣たちと渡り合い、会議を覆します。監督のロベルト・アンドーはインタビューで、同作を「ある一人の人間の権力に対する挑戦を描いた物語」と形容していますが、サルスが権力と対峙できたのは「無縁者」だったからとも云えます。彼は財産を一切所有しておらず、「神秘」ーこの場合は「神」と云うことになりますーを信じていたので、状況を打開できたと云えます。

 
 またアンドー監督は別のインタビューで「芸術作品」ですら「経済的な価値」をつけられている現在の風潮を指摘し、「経済」が「神」となり、「経済学」が「神学」になっているのではないか、と述べています。

 
 ちょうどそれは、安冨さんが「神秘的な合理主義」への批判とも重なるところがあります。安冨さんは「私」と云う極めて個人的なことから思索を進めることで、普遍的な価値にたどり着いたと云えます。同書で論じられているのは、「立場主義」と云う日本特有の社会についてですが、同時に普遍的な事象についても述べられていると云えます。



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