【タロット記0】もし、どこの誰でもなかったら自由は楽しいもののはず
■タロット記■
これはタロットカードと、自分の体験と、そこから気づいたことの記録です
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「0.愚者」から考える
とうとう、このタロットと体験と気づきを書いてきた「私のタロット史」最後の愚者となりました
タロットカードのことを少しご存じ方は
「あら?愚者は0番だから一番最初のカードでは?」
と思われた方もいらっしゃるかもしれません
でもここで私が書きたいことからいうと、「愚者」は最初のカードというよりも、番号、数字で振りわけられたカードたちとは少し違うポジションに位置するカードという見方をしています
「愚者」はよく「自由」や「無鉄砲」などのキーワードがあげられますが、今回はこの「自由」というところに焦点をあてて、私の気づきをお話したいと思います
■居心地の悪さ
私は休職&無職期間中、とても肩身が狭い気持ちでいました
例えるなら、社会の歯車として回っていたのに、スムーズに動けなくなって、ポーンと部品が飛び出して床に転がって落ちてしまった状態です
歯車単体では何の役にも立たなくて、ただそこに転がっているだけなので、居心地も悪く少しみじめな気持ちです
私が社会の森から外に出て、私単体になった状態でいる時もこれと同じ気持ちでした
毎日毎日家にいて、仕事もせず、これからどうなっていくのかわからなくて、時間だけがある状態
先のことを考えても、何も見えてこない
時間だけが無駄に過ぎていくように思えて、焦って怖くなって自分を責めていました
■役割もなにもない愚者
でもある時、
ふと思いました
「もしこれが愚者だったら?」と
「愚者」と自分を照らし合わせた時、この状況「愚者」なら悩むどころかもっと楽しんでないか?と思いました
時間だけは無限にある
これまであんなに時間に追われて、時間が欲しいと思っていた私に
今の私って「自由」じゃん
好きなことが好きなだけできる時じゃん
と思いました
この視点になる前の私が何を基準に世界を見ていたか…
それは「社会の一員」でいることが基準になっていました
あんなにルールや規則で縛られることが苦痛だったのに、そこから放り出されたら出されたで不安になって、また社会の中で自分の役割を求めるようになりました
群れで生きてきた生き物の習性として仕方ないことかもしれませんが、逆にその習性が、群れの中にいない自分を責めてしまっていました
「愚者」は、どこにも属さない、どこからも離れたところにいる存在の私に、自分を肯定する気持ちを取り戻させてくれました
「愚者」というカードの概念が、「どこの誰でもない、どこからも自由な存在」だったからです
このカードによって、私は、自分を責めてネガティブになっていた気持ちから、せっかくだから今を楽しもう、今の時間を有意義に使おうという気持ちに変えることができました
そして、「何者かでいることが大事」だと、いつの間にか思い込んでいたことに気づくことができました…
■自分ホログラム
タロットカードの1番から21番+0番の計22枚のカードをとおして、「適応障害になった私」という過去を振り返って見てきました
自分でもよくここまで書いたなと思いますが、タロットと自分を重ねて考える作業はとても楽しくて、不思議とイラストもさくさく描くことができました
あとは、タロットカードの概念や世界観を理解するのにも、自分の現実に起きたことと重ねて考えるのはとても有益でした
そして今回一番面白かったのが、
《22枚のタロットの視点を使って自分を立体的に見る》
というところでした
いつも私たちは自分自身のことを見る時、平面的にしか見れていないことが多いかと思います
過去の自分も、現在の自分もです
でも各タロットの視点を使って、過去を整理しながら自分を振り返っていくと、だんだんと平面だった自分が立体的になっていくような感じがしました
自分のことがわからない
自分の過去に縛られている
そういう時は立体的な自分ホログラムを見てみるというのも、なかなか新鮮でスッキリするかもしれません
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