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私が"私を生きる"には

病院の待ち時間、近くの土手を少し歩く

サクランボが実っているのを見つけた
胸の中にいる幼い自分がそれを見て、喜んで跳ねて駆け出した気がした


それからまた少し歩いて、枝垂れ柳の下の石に腰掛けて本を開く

しばらくして、ふと
ちょろちょろと水面が舞う音と、ざわわと風に揺れる葉音に気づいた

本を閉じて、目をつむり、耳に入る音と、肌に触れる風の感触と、空気の匂いに意識を向ける

その時、読んでいた本のある一文が私の頭に思い浮かんできた

"季節を感じること、そして季節に応じた生き方をすることは、人を人たらしめる行為だ

〜中略〜

人との関わりを断ち、自然にさえ交れなくなったとき、ひとはゆるやかに死に近づいていくのではないだろうか"

「子供の死を祈る親たち」 押川 剛 著


たしかに、自然を感じてみると、自分は自然の中で"人という物"であり、ここに"自分という存在"がいるのだと、対比から認識できるような気がした

さらに、どの視点から見るかによっても、違いがあるということに気づいた

自分という視点と思考から世界を見た時、自分の小ささや世界の大きさに途方のない恐怖や不安を感じたことはないだろうか?

個として絶たれ、たった独りぼっちのような孤独の影を感じたことはないだろうか?

反面、自然の中から自分を見る視点というのは、自分の小ささを感じるものの、それは恐怖ではなく、自然の中の小さな一部、という捉え方になり、守られている安心感を得られる

現に、柳の木から空を見上げて、ホッと安心感に包まれたのだから、私はそのように思う

人は1人では生きられない、とよく言うが
それは人との関わりだけのことを指し示した話ではないと思う

この世に人として生まれた私は、自然という、完璧であるがままに流れる存在の中の、ごく一部だということを忘れてはいけない

そう認識しておくことで、私は ”私で在れる”し 、”私を生きられる” のではないだろうか

その完璧なあるがままの世界の中で、私は色々なものから守られて生きている

【ここでどのように生きるかは、自由で、私次第なんだ】

と、今日、世界のカードを見た時、そんな思いが湧いてきた

ではまた。


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