『マルクス解体』メモ11
なんだかんだで週に1回ぐらいの感じになってる。でも続けます。初めての試みだけど、楽しい。楽しいけど進まない。小説に逃げてしまう。
今日は第二章「マルクスとエンゲルスと環境思想」の第一節「知的分業?」。「知的分業?」とこちらに聞かれてもね。導入の最後を読む限り、第一節では、マルクスとエンゲルスの知的分業の背景が述べられているらしい。
メモ11(p.70~p.80)
マルクスの環境思想が周縁化されてきた(重要視されてこなかった、無視されてきた)のは、エンゲルスの政治的関心の影響があった。理解されやすくするために単純化するがゆえに、歪んで(必要なはずの部分が除かれた?)伝わってしまった。
発行された『資本論』には、自然に関する記述がないため、マルクスとエンゲルスが分業していた(マルクスが社会や経済の仕組み、エンゲルスが自然?)。
マルクス主義に関してもっとも読まれたのは、エンゲルスの『空想から科学へ』だった。「マルクスはこう言っている」は、実はエンゲルスによって語られたもの。
機械論的世界観・・・わからん。
マルクスとエンゲルスが分業していた説(マルクスは自然科学(≒環境問題)を見ていなかった)に対して、マルクスは自然科学にも関心を持っていた(エンゲルスと足並み揃ってた)説もある。けど、それもまた違うのではないか。
知的分業を強調したのは、エンゲルス本人。
エンゲルスは、マルクスが自然科学について研究していたことは知ってたはず。それなのにそれを隠していたのは、マルクスの関心と自分の関心が異なっていたからではないか。
今日のまとめ
「彼らはそれぞれ完全に分業していた」わけでもなく、「同一の考えであった」わけでもなく、「同じものを見ながら違うことを考えていた」ということか。先にマルクスが亡くなってしまったがゆえに、エンゲルスは生き残った者のある種の特権として、嘘はつかずに(ついてた?)自分の考えとは異なる部分を隠しつつ、政治的な運動にマルクスの研究を使っていた、ということなのか。
「単純化すると、正確ではなくなる」というのは、人に何かを伝えるときに感じるジレンマ。知っているがゆえに、単純化すると一部嘘が入ってしまったり、またはあえて伝えなかったりする。
場面にもよると思うけど、これは気を付けたい。それが大事なときもあるし、それをしちゃいけないときもある。(本筋とは全然違うけど)
次は第二節。著者と編者の違い。
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