4:帰路

 復路は大分、スムーズだった。道路も渋滞もなく、雨脚も少し弱まり、長雨の終わりが漸く近い様な予感がした。
 助手席の遵は先刻の髪製ミサンガを取り出しては眺め、しまっては取り出して、を繰り返している。
「そんなにそれ、興味深い?出来たら私はもう視界に入れたくもないんだけど」
 結実は怪訝そうに、遵の無神経さを非難したが、気に留めるどころか、ニヤニヤと笑いながらら
「いや、これにはそれ程。ただお前は本当に役に立つ相棒だな、と思って」
 信号待ちのタイミングで、遵の方に向き直り、出来るだけ深刻そうに受け取ってもらえるような声色で尋ねる。
「それは、一体、どういう意味で言っているんだ?」
「そのままの意味だよ」
 遵は前を向いたまま、飄々と答え、続けた。
「今日だって、お前が上階を回ってくれなかったら駄目だったんだ。」
 話がどうも要領を得ない。要点が一つも無い言葉に、次第に結実も苛立ちを隠せず、それが運転にも大いに影響していった。
「わかった、説明するよ。無事、帰り着く事が出来たら話すから」

 向かった時も通った、あの交差点の信号にまた捕まった。横断歩道を老人が、杖をついて渡っていく。
「あのおじいさん、この道よく渡るんだな…」
 結実は独りごちながら、その様子を眺めていた。
 やがて歩行者信号が点滅し、老人が渡り切る前にまた進行方向側の信号が青に変わった。結実がそれを眺めていると、対向車がまるで躊躇もなくその老人を跳ね上げた。そして後続車が次々に、横たわった老人の上を乗り越え、走り去っていく。眼前で起きた惨事に、身体が動かない。老人は数台の車に轢かれ、身体はもはや形を保っていない。しかし、平たく潰された頭部から覗く2つの白濁した眼球は、その間ずっと、結実を見つめたまま視線を外さなかった。
 硬直したまま、また進行方向の信号が赤に変わった。また足の不自由な老人が、横断歩道を渡っていく…。
 助手席にいた遵が、手元の髪の毛で出来た縄をブチブチと音を立てて毟っている。
「存在しないものに、道を譲る必要はないよ」
 その言葉に結実は僅か頷き、信号が青に変わるのを確認して、アクセルを踏み込んだ。
 老人がフロントガラス目前に迫ってくる。俯いていた顔が、大きな動作でかぶりを振り、こちらを向く。ヘッドライトが照らす、顔面に穿たれた二つの孔の奥で、何かが反射して光ったように見えたその刹那、運転席の結実と助手席の遵の間をすり抜けて行った。

 本当にろくな事がない。遵と出逢ってから、自分が望む望まないに関わらず、むしろただ日常を過ごしている似すぎなくとも、闇の方から忍び寄って来て、油断すると途端に喰われそうになる。
 しかし、それでも遵と関わりを絶たないのは、それまで気づかずとも、自らに寄り添い続けていた闇を知ったが故、その暗さや深さに魅入られてしまったのかもしれない。また、知らないふりや見ないふりをして、突如飲み込まれ、自己を失うのが何より怖いのだった。

「早く帰ろう、疲れてしまった」
 シートを倒しながら、遵は眠そうに結実を急かした。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?