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パライソ

 長崎県の中でも 我が故郷五島列島は東シナ海の美しく雄大な景色の中にあり、最近は特に朝ドラの舞台になったりして 今かなり旬な感じもする。しかしその明るい表の顔とは裏腹、歴史の上では悲しく忌々しい歴史を持ち合わせている。キリシタンにとっては悲しい島でもあったからである。

 我が国では近世において、幕府や政府の方針にそむき、禁じられていたキリスト教を信奉する隠れキリシタンの摘発が度々行われた。捉えられた老若男女の内 改宗に応じない者は、身の毛もよだつような拷問によって棄教を迫られたことは忌わしい事実である。秀吉は当初キリスト教の布教や新たに教徒になった者にも寛容だったが、ある時期からてのひらを返したように血も涙もない残虐な暴君に転じた(それ以前の信長時代には信者が一挙に増えている)。以降 250年以上の長きに渡って日本ではキリスト教は禁教となった。

 キリシタンが多かった長崎県においても、ナチスも驚くような非道な拷問が行われていた。引き潮の時に海底に突き刺した十字架にキリシタンをくくりつけて満ち潮で溺死させる、石と共に手足を縛り海に沈める、裸にして熱湯をかける などの蛮行が、衆目の中公開で行われた(スコセッシ監督の映画『沈黙』にもいくつかの手法が描写されている)。しかし最も酷い仕打ちは親の見ている前で幼い子供が泣き叫びながら拷問を受けることではないだろうか。人にとってこれ以上の地獄がこの世にあるとは思えない。
 私の生家のすぐ近くでも辻斬りによる隠れキリシタン一家6人の惨殺事件が起きた記録があるが、それは明治に入ってからのことであり 決して昔話ではない。

 また長崎の中でも五島列島久賀島における「牢屋の窄(さこ)事件」は風化させてはならない史実であり、私はぜひ多くの人に知って欲しいと思っている。棄教させるため極寒の海に漬けたり、炭火を押し付けるような仕打ちにあっても為政者の意向に従わなかった老若男女200人以上をわずか12畳の小屋に8ヶ月に渡り押し込めてなぶり殺した事実を初めて聞いた時には、比喩ではなくリアルに背筋に冷たいものを感じた。収牢されたキリシタンたちは朝夕1片ずつの芋だけを与えられ 糞尿も垂れ流しのまま、ぎゅうぎゅう詰めの牢内で 老人や子供、要するに弱い者から次々に力尽きていき、合わせて40人以上がそこで命が尽きパライソ(簡単に言えば教徒にとっての天国)に召された。

 取り締まりの厳しい九州本土の苛烈な迫害から逃れるため、多くのキリシタンが長崎県西岸の外海地区から対岸である五島の各港に手漕ぎの舟でたどり着いた。そんな着の身着のままの悲壮なキリシタンたちに対し、土着の五島民はどう対応したのか・・・?
 条件の良い入江や平地部分は元々島に住んでる自分たちの生活エリアであるから、新参者はおよそ耕作に適さない土地や峻険な崖の上などに当たり前のように追いやられた。そしてそんなキリシタンのことを居付(いつき)と差別的に呼び、邪魔者扱いしたことが文献から読み取れる。
 上下を付けたがるのは人としての本能であり、性(さが)なのかもしれない。しかしそうは思うのだが、江戸時代〜明治初期に生きた五島の民は、辺境に住んでいる自分たちよりさらに見すぼらしく貧しいキリシタンを見て『ヤダわ、あんな汚いヤツら・・・』などと思っていたのだろうか。またはキリシタンと親しくしていることで自分たちにも疑いの目を向けられないように距離を置いたのか・・・。なんとも救いのない悲しい事実だ。

 隠れキリシタンの間では、殉教することでパライソに至ることができるのだと信じられていたらしいのだが、虐げられ拷問死したキリシタンたちは今 天国パライソで笑って暮らしているのだろうか、またそうあってほしいと クリスマスで浮かれている平和な今の世にふと思う。

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