見出し画像

8月9日

 昭和3年生まれの父のことを。

 父は長崎県は五島列島の 大きな5つの列島の横に浮かぶ椛島という名の小さな島で長男としてこの世に生を受けた。以後弟や妹も2人ずつ生まれたが、父が8歳の時 感染症が元で父親(私から見れば祖父)が他界してしまった。亡くなった父親を家族で樽型のお棺に入れ、最後の別れにと頭を撫でた時には涙がこぼれた ということを私に話してくれたことがあったが、私が聞いた祖父のエピソードはその一つだけだ。

 当時としては当たり前の成り行きだったのかもしれないが、長男である父は中学を出ると一家の大黒柱として家族の生活を支えることになった。疑いも持たず 近海漁の漁船に乗ることになった父。上の学校に進学できない者にとっては その島では他に選択肢などない。さらに大東亜戦争の末期という時代でもあったから、漁の仕事以外に 島を出て長崎の街の工場にも勤労奉仕に行っていたという。先輩に教えてもらって、曲がりなりにも旋盤を使えるようになっていたらしいが、幼い頃に父親を失い、一人で家族を背負わなければならなくなった少年にとっては、過酷な毎日だったであろうことは想像に難くない。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 1945年(昭和20年)8月9日、その日は長崎で勤労奉仕の日だった。お昼の少し前、真夏のことゆえ上半身裸で窓を背に旋盤を回していた父は、閃光で室内が一瞬真っ白になるのを見た。そして次の瞬間猛烈な爆風によってガラス窓が窓枠ごと飛んできて父の体に襲いかかるのと同時に、父自身も部屋の隅まで吹き飛ばされた。何が何だかわからない状況であったが、父は大きな爆弾が近くに落ちたのだと思ったらしい。なぜか外は不気味なほど暗くなり、人々は奇声をあげながら走り回っている。
 背中と全身打撲の痛み、また再び爆弾が落ちるのではないかという恐怖の中、その日は他の工員とともに夜を迎えた。しかしその間にも次々に長崎の方から人が逃げてくる。うつろな目をした亡霊のようだったと父は言った。

 本社の状況もわからず また自分たちの現状を報告しなければならないと思った父は、明るくなるのを待ち、数km離れた爆心地近くにある本社に行くため歩き出したのだった。
 目的地に近づけば近づくほど目に入る状況は凄惨さを増し、市内中心を流れる浦上川の川岸には水を求めて力尽きた死体が積み重なっており、うめき声や子供の泣き声に混じり、水をください、助けくださいという声が四方八方から父にかけられた。初めはそんな声に反応したりもしていたが、構っていては前に進めなくなるため、途中からは無視しなければ仕方がなかったことを、父は私に辛そうに話したものだ。
 やっとこのあたりかと思われた 本社があった付近一帯は、瓦礫以外にあるものは 元は人間だとわかる多数の黒焦げの死体だけだった。生きている人も服は焼け焦げ、生々しい火傷を負いながら男女の区別さえつかない人ばかりだ。
 しばらくそこにいた父だったが、同僚はおろか何の情報も見つけられない。この世のものとは思えない地獄絵図の中で、どうすることもできず やむなくそこから離れたのだという。

 その日に父が取った行動は、後に被爆者としてのカテゴリー分けの判断材料となった。原爆投下翌日に爆心地付近に入ったことで、1号から4号まである被爆者手帳の等級では、父は1号の被爆者となったのだ。身体障害者手帳でいうところの1級ということである。しかし父を含め当時の一般国民は、原子爆弾という名前さえ聞いたことはなかったし(広島以降は『新型爆弾』と呼ばれたという)、放射能の恐ろしさなど全く知られてはいなかった。

◆   ◆   ◆   ◆   ◆

 史実を振り返ってみるならば、その日原爆(プルトニウム爆弾:ファットマン)を積んだ B-29 爆撃機(ボックス・カー号)は、投下目標である福岡県小倉の上空に至ったものの、雲が厚く(前日の八幡大空襲の火災の煙も影響したらしい)地上を目視することができなかった。そこで第二目標である長崎上空に飛来したのである。わずかに雲間からのぞいた長崎の街。倫理的に決して許されない悪魔の兵器が、罪なき人々の頭上に落とされた。地上500メートルで炸裂した 広島に続く人類史上2発目の原爆。投下地点が当日現場で変更されたこともまた 運命に違いない(戦争がこの後も続いていれば次は やり損ねた小倉、そして新潟が標的となる計画だった)。

 長崎の原爆によって命を失った若者とその母の物語を、嵐の二宮和也さんと吉永小百合さんが好演した映画『母と暮せば』で描かれた 原爆の炸裂シーンでは、決して現実をそっくりそのまま描写することなどできないことは承知しているが、我が父の運命と重なって 涙が溢れ、映画館では顔を上げられなかった。
 今でも長崎の街には原爆投下の爪痕が数多く残っているし、悲惨な逸話には事欠かない。被爆直後の写真もいくらか存在しているが 、私は人前ではそれを見ることができない。そんな中に父もいたのかと想像して泣けてくるからだ。

 10万に迫る犠牲者。しかし幸運にも生き残れたとしても、放射能により日常生活もままならなくなった人、白血病にかかった人、また大小のケロイドが体に残る数多くの人が発生した。しかしそんなことがあまり表に出てこないのは、被害を被った人やその家族が被爆によって心身症状のある事実を公表したがらないという現実があったからだ。被爆者差別というものが存在したからである。『ピカドン』に遭った人は就職や縁談にも支障があったことは、この上なく悲しい事実である。

 長崎の街は壊滅し その6日後に日本は無条件降伏した。そして終戦とともに父は漁師に戻った。家には養わなければならない家族として、母親の他 4人の弟や妹がいる。父が金のない悲しさを本当に感じるのは、戦後の方が よりきつかったという。弟や妹を学校に行かせないといけない父は、屈強な大人たちに混じってがむしゃらに働いた。『父さんには青春というものはなかった』といつか話してくれた父の言葉は、私の中で後になってすご味を増した。私は自分の出自を人に話す時は、必ず『漁師の息子』だと自己紹介する。しかし次に来る私の称号は『被爆二世』である。
 父が他界しちょうど10年。今年も8月9日がやってきた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?