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ああ、ブランドか・・・。

 ある年の春に我が校を卒業した男が勤めていたサロンを、まだいくらも経っていない6月一杯で退職した。それだけならよくある話なのだが、退職理由が『この給料では月に一着は自分が手に入れたいブランドの服を買えないから』というものだったため、男が勤めていたサロンのオーナーが学校に嫌味たっぷりに報告してきた。『そんなことは入社前にわかることだろう』と。
 特別に給料が安い店でもなかったし、労務環境にも問題は見当たらない職場だったのだが、辞めた理由が衝撃的だったため 我々も慄いた。

 そんな目的で働くのか・・・。時代は変わったなぁとは思ったが、そのブランドには退職した卒業生にしかわからない思いがあったのだろう。防げた案件なのかもしれないと思うと、そのサロンには申し訳ないことをしたとも思う。

以下はあくまで私見である。

 自分の立ち位置が低い我々日本人は、高級品への憧れが世界一強い民族でもある。だからブランド品が好きな人も多いのであろう。自分の価値を高めてくれると思うからだ。以前 全世界におけるルイ・ヴィトンの総売上の 80% 以上は日本人が買った結果なのだと聞いたことがあるが、さもありなんである。しかし分不相応であるからこそ持ちたいのであり、見上げたところに存在するものとわかっているから、所有して 自分の立っているところを少しでも高めたいのだと思う。

 ところで我々日本人は子どもの頃から個を埋没させるように教育され続けている。『出過ぎるな!』『目立つな!』と。個人が良い方に目立ったりすると すぐに集団の反感を買って、高い確率でアンチが出現して意地悪されたりする筋書きは、少女漫画やドラマ、映画でも日常として描かれており、考えようによっては 我々は大変恐い一面を持っているのだと言わざるを得ない。

 私は毎日通勤のために電車を使うが、性格的にギリギリというのは嫌なので、電車の発車時刻より早めにホームに辿りつく。そのせいで 私が乗る電車を待つ人はまだおらず、先頭に並ぶことがしばしばあるのだが、私が並んだ後、2番目にそこに到着した人が私の横に来ず、真後ろに並ぶことが少なくない。そうなると3番目の人はそのまた後ろに並ぶことになり、2列に並ぶ決まりなのに、長い1列になってしまうのだ。
 自動二輪に乗っていた時にも同じことが起きた。交差点の赤信号で最前列で待っていても、同じ単車乗りは真横に停めないことが多かった。
 これらは『私はあなたと張り合うつもりはありませんよ』とか『敵ではありませんよ』ということなのだと思うが、まぁなんとセコくてつまらない考え方であろうか。こんなことが起きるのも『出過ぎるな!』『目立つな!』と言われ続けていたムラ社会教育の功罪に違いない。

 しかしである。集団の一員から逸脱しないような生き方を強いられ続けるということは、 『他人より優れていたい』とか『優れていることを自慢したい』という人間の本能である思いを抑圧され続けていることにもなるのである。そんな押し込められた『賞賛を浴びたい気持ち』は、機会があれば また隙間があれば、一気に吹き出すことになる。その良い例が結婚式であろう。あの数時間だけは何をやろうが、どんなに目立とうが、ド派手な演出をしようが周囲は許すし、また認めてくれるからだ。

 さて本題に戻ろう。他人から賞賛を浴びたりマウントを取りたいという隠れた本心は、先に述べた結婚式の主人公になった時などには ここぞとばかりに爆発させることで消化できるのだが、あくまでそれは非日常の出来事でしかない。よって平素はフラストレーションのはけ口がないものだ。ブランド志向というのは、そんな思いのはけ口なのではないか? 高級な物であってもそれは個人の持物であり 少なくとも他人の邪魔はしていない。しかし確実に『私はこんな高級なものを持つことができるレベルの人間なのよ!』というアピールができるという優れモノなのである。しかしそのアピールをするためには、周囲もそれを高級なものであると認知していなくてはならない。その意味で、一目見て有名なブランドだとわかるものは、承認欲求をものいわずして満たしてくれるから、マウント意識の強い人にとって需要が高いデザインだと言える。そんなことを考えていると、周囲への誇示のためにブランドにこだわることは、なんと貧しくセコい考え方なのだろうと思ってしまうのである。

エルメス:バーキン -ヒマラヤ-
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 誤解されそうなので断っておきたいのだが、それを持つことが相応しい人(滅多にいないが)を見ても、不自然さは感じないし文句もない。きっとそんな人は『持つ』ことにこだわってはいないし、それを持てる水準に達しているだけだからだ。『相応しい』とはそういうことだ。

 件の卒業生や今在籍している生徒たちの価値観を変えることなどできないが、せめて どんな物を持ったところで人の価値が上がるわけではない ということは教えたいなぁと思っている。分不相応なものは、いくら高価で高品質なものであっても、内面が伴ってはいないので似合わないものであることを。

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