見出し画像

教員のマインドコード

 授業という字は授ける業と書く。しかし生徒に何も授けていない、時間給で働いているような教員は少なくない。己の生徒指導に理想を持っていない故、どのように育って欲しいとか、育てたいという熱量が無いせいだと思っている。マニュアル通りに進める授業しかせず、型にはめ込んではみだした生徒にダメだといってるだけなのだ。しかし最近はその型通りの作業さえもままならない教員も存在する。

 ドレスコードというものが存在するようなパーティーでは、招待状にそのことが記してある(私は残念ながら「平服でお越しください」というものしか貰ったことはないがw)。冠婚葬祭においてはその指示が無くとも、常識として相応の装いをする。集まった人たちとともに、招いてくれた人や場に対して礼を尽くし、敬意を表わす必要があるからだ。フォーマルな空間に参加し、思いを共有するために礼装はパスポートとなる。

 さて話を戻して。生徒に指導するために教室に入る時、そこにもドレスコードのような掟があるのだと思う。それは自分が行う授業において「生徒に何かを感じさせてやろう!学ぶ喜びを体験させてやろう!」という目標を持つことだ。そして我々のような専門学校ならばさらに、「生徒たちに社会における競争力をつけてやろう!」といった気概を教員が持つことこそが、多くの生徒が待つ教室に入るための最低限の約束事なのである。もちろん着るものの条件ではないからドレスコードではなく『マインドコード』とでも名付けようか。世の中で指導と呼ばれるものの全ては、それを指導する者のそんな思いから始まるのだと確信している。だからこそ教えるという仕事は聖職たり得るのである。そんな理想と情熱を持った素晴らしい指導者もいる反面、前述の「時間給教員」も小学校にも中高にも、残念ながら我が専門学校にも少なくないのが実態である。ドレスコードを無視して授業に臨む教員は、パジャマやスウェットで教室に入るようなものである。

 己の力不足を棚に上げて大上段からの物言いになることは承知の上だが、教育の理想を持たず時間給で自分の仕事を捉えているようなあまたの教員たちには「あなたの授業を受けても、生徒の中に何の変化も起きないのではないか?あなたの仕事は何なのか?」とただしてみたい。生徒の目が輝き、新しい発見に心が震えるような体験をさせてあげる授業は、それを実現する存在でありたいと心の底から思っている教員にしか達成できないと信じる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?