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思い出になる事、すぐそこに当たり前にある事。

子供の頃、数年間は団地暮らしで庭とは無縁だった。
団地の敷地内にちょっとした公園はあったけど
庭と言うものとは程遠かった。

ちょっと離れたた場所に
いつでも草がうっそうと生えまくっている
公園があった。

あまり管理されていなかったからなのか
そういう趣向だったのか、
はたまた、そもそも公園でもないただの空き地だったのか

記憶は定かではないが私たちはその公園を
「草ボーボー公園」と
そのままの名前を名付けて、割と気に入って遊んでいた。

他に遊んでいる子供もあまり、、、
というか見かけなかった気がする。

だからなおさら、自由に遊べて気に入っていたのかもしれない。

その団地の近くの田んぼの土手に春先になると
「ふきのとう」がたくさん出てきて
毎日のように母や弟たちと摘みに行っていた。

今考えると土手とは言え普通に人の家の田んぼなのだが
特に咎められたとかそういった事はなかった。
毎日のようにとりに行っていたにもかかわらず。

そもそも、毎日ふきのとうを取りに行く親子なんて他に見かけなかった。

弟は東京で板前の修業中に、春にふきのとうの天ぷらが出ると
故郷を思い出すと言っていた。

味なのか、香りなのか、それとも記憶にあるあの毎日摘みに行った光景なのかは分からないが。

私は逆に、今はずっと地元なので
もうあの団地にはいないが「ふきのとう」を懐かしいとは思わない。

ただ春先に真っ先に土からぴょこんと出てくる姿を見ると

「やっと冬が終わったね。春が来て嬉しいよね」
と話しかけたくなってしまう。

まあ、そのあと摘まれてしまうんだけどね。

時々街で、この季節になるとパックに入ったふきのとうが
結構よいお値段で売られているのを見ると、
「ふきのとう」って買う人いるんだ!といちいち思ってしまうが
そんなのはふきのとうでなくても他のなんでもいえる事で

ふきのとうは手軽に採りやすい山菜であって
山には街の人が喜ぶ山菜がこれからわんさか生えてくる。

それもお値段をつければ結構な額になるけれど

ここら辺では、そのうちに
「採れすぎて、、、悪いけど貰ってくれない?」
「食べれなかったら捨てていいからね」

なんて言葉と共にいろいろなとこから集まるようになる。

一応私も少し、山菜の生える山を持っているのだが
なにかと家の事ばかりで、ほとんど、、、いやまったく採りには行けていない。

それこそ、お金を出しても買いたい人からみたら
なんてもったいない事と思われてしまうのだろう。

きっと逆の事ももちろんあって

田舎にいると、お金と時間をかけてやることが
街にいるとすんなりできたり

ふきのとう一つでなんだかイロイロ思い出したり考えたりしてしまった
春の朝であった。




さいごまで読んでいただき感謝の気持ちでいっぱいです(o^―^o)!! 貴重なあなたの時間の一部が、よいものとなりますように✨